4 ブライユの生家(クプヴレ村の、ルイ・ブライユ博物館)

 2010年4月2日(金)

 今回パリには、私は妻とともに来ていましたが、妻も自らの目的を持っていたので別行動がほとんどでした。
 しかし、ルイ・ブライユの生家を訪れるこの日は特別です。慣れない土地の郊外に出るのが、私一人では多少不安だったということもあります。

 パリ市から真東へ35キロメートルのところに位置する「クプヴレ村」に行くには、東駅から国鉄に乗ります。パリは人と建築物で溢れる地域ですが、一歩郊外に出ると、すぐにのどかな農園風景と住宅地が広がっています。

           

           

 電車の二階席の窓から曇り空の農園風景を眺めていると、30分ほどで到着です。
 到着駅は、クプヴレ村の隣町にあるエスブリー駅。小さな駅です。
 人もまばらで、静かな住宅地と商店街との間に、ぽつんとその駅はありました。

 ぶらぶらと方向もわからずに歩き、道を歩いてくる買い物帰りの年配の婦人に、ブライユ博物館を尋ねます。
 英語は基本的に通じません。ジェスチャーと幾つかの単語だけが心の架け橋です。
 その婦人は、元気な様子で「こっちに来て」と言って、まずバスの運転手に話しかけ、「これにお乗りなさい」という感じで手招きしてくれました。
 しかし、私たちは歩いて行きたかったのです。ブライユがいた街の雰囲気を、少しでも多く感じ取りたかったのでした。

 「博物館まで、4キロもあるのよ!」
 「いいんです。構いません」
 「それじゃ、分かったわ。こっちよ」
 
 駅の線路をまたぐ歩道橋を一緒に渡り、しばらく閑静な商店街を歩いてから、その先の道程を婦人は身振り手振りで教えてくれて、そして私たちは握手をして笑顔で別れました。
 フランス人はほんとうに親切な人が多いのです。

 道程はシンプルでしたが、それでも多少迷いながら、不安を胸に歩いていきました。
 しばらくすると、「ルイ・ブライユ通り」という名前の通りが出てきます。
 両側は、ガーデンの美しいレトロな趣向の住宅です。
 さらに歩いて行くと、道は牧草地や畑を突っ切るように延びています。

           

           

 しばらくして、エスブリー町からクプヴレ村に入る標識があり、右手に村のちょっとした総合商店街が見えます。大手スーパーのカルフールもあります。
 さらに道は枝分かれをして、そしてルイ・ブライユの生家という標識が、ミュージアムのマークと一緒に出てきました。
 
 クプヴレ村は、可愛らしい昔ながらの石造りの家々が集まった、雰囲気のよい農村でした。
 ブライユがいた1800年代初頭、この村は小さいながらも葡萄農園があったり、馬具や車や蹄鉄を作る大工のいる、活気のある村だったそうです。その後、鉄道が敷かれると、駅が設けられた隣町エスブリーに活気は奪われてしまったといいます。

           

 じつをいうと、私は神奈川の自宅のパソコンから、グーグルアースのストリートビュー機能を使用して、この辺りの様子をいちおう三次元的におおまかには見知っていました。
 フランスのストリートビューは、すでにかなりの範囲を掃いているので、グーグルの地図上には、ルイ・ブライユ博物館の前までの画像データが揃っているのです。すごい時代です。

 それでも、じっさいにこの街の空気を吸い、旧い家々をみたり、農地や林のわきを歩いていくのは、当然のことながらリアリティが違います。
 ああ、ついに来たんだな、と一歩一歩が嬉しくなりました。

   *

 クリーム色の壁のブライユの生家に辿り着き、中をのぞくと、メガネの中年の男性がこちらの気配に気づいて、ドアを開けてくれました。
 私は、どうしてか感慨で胸がいっぱいになり、涙目になっていました。妻はのちに、「いやぁ、あなたがあんなに感動してたから、私、おどろいちゃった」と言っていましたが、私自身も我ながらびっくりしました。
 ほんとうに感無量だったのです。たぶん、ブライユの人生について本を読んでいるうちに、すっかりブライユのファンになっていたのだと思います。
 
           

 博物館の中の男性はニコニコしながら「どうぞ」と私たちを招き入れて、こころもち頷いて間をとってから、
「で、貴方は?」
と感無量で立ち尽くしている私に自己紹介を促しました。

 挨拶を済ませ、入場料を支払って、博物館のツアーが始まりました。
 案内係のマリさんというその男性は、村役場のかたで、博物館を切り盛りしている2、3人のメンバーの一員ということです。

 ここはブライユの生家がそのまま博物館として改築され公開されていて、地階から三階の屋根裏部屋までがあります。裏手には、やはり当時の建物をリフォームしたという資料棟があり、そこにモニュメントのある小さな庭が付属しています。
 ブライユの生家の南西には、その向こうの森との間に美しい芝生の庭が広がっています。

 この博物館は規模としては小振りですが、丁寧にひとつずつ全体を回って解説してくれるので、内容は濃密で、盛りだくさんに感じることでしょう。
 (私たちは地下のワイン倉を見逃しましたが、それでも昼休み時間も関係なく1時間半もかけて案内してくださったので、満足感でいっぱいでした)

           

 博物館の内容です。
 (許可を取っていないので、写真の表示は差し控えます。)

 まず一階に、馬具職人だったブライユの父親の仕事場があります。
 ブライユは三歳の時に、キリかナイフで遊んでいて片眼を突いてしまい、そこから細菌が入ってやがて両目の視力を失いました。
 先の本には、こう書いてありました。「その事故はルイのまわりの人びとを嘆かせたが、世の盲人にとっては、天の助けといえるものになったのである。」運命というものについて、ちょっと考えさせられます。

 さて、いちど外に出て外付けの小さな階段を上がると、一階のまた別の部屋があります。
 ブライユの父親の部屋で、ベッドがあり、暖炉があって、ピザ窯のような設備もあります。
 可愛らしい水場も設けられていて、キッチン兼リビング風でもあります。
 
 もう一度外に出て裏手の井戸の脇を通り、隣の資料室へ行きます。そこはまだガランとしていて、目立ったものとしては、ブライユの胸像といくつかの写真くらいしか置いてありませんでした。

 マリさんは、ブライユの胸像および写真について説明してくれました。
 「ブライユの正確な顔立ちは、一枚の写真にしか、さかのぼることができません。この写真です。この写真は、ブライユのデスマスクから作った胸像の写真なんです」

 ものの本によると、当時パスカルの遺体から作ったデスマスクが話題になり、その手法で同じようにブライユのデスマスクをとったことが推察されるそうです。
 マリさん曰わく、デスマスクの胸像は保存が長く利かなかったようで、やがて失われてしまいましたが、そのデスマスクの胸像を正面から撮った写真が、こうして一枚残りました。
 この写真から顔の奥行きを推察して、いくつものブライユの胸像や肖像画が作られた、ということだそうです。(異説もあります。)

 資料室の外の庭にあるモニュメントは金属製で、空中に二つの手が浮かんでいて、片方の手は鍵盤を、もう片方の手は点字の書面の上を踊っています。

 入口の部屋にもどり、今度は建物の中央に位置する木製の急な階段を上って二階へと移動します。
 二階。ここが、かつてブライユの部屋だった場所です。暖炉もなく、冬は寒かったといいます。かなり広い間取りです。おそらく当時の雰囲気は窓くらいにしか残っていません。
 現在は完全な資料室になっており、いくつものガラスの展示棚に、さまざまな点字に関する歴史的資料が飾ってあります。

 見たことのない珍しい点字器。色々な時代の点字タイプライター。さまざまな種類の点字図書。準教師の制服を着たブライユの等身大の人形もあります。
 マリさんがおもむろにガラス棚の中の展示品を指差しました。

 「この点字本は、ブライユが1点1点じぶんで打ったものですよ」
 「ブライユ本人が、ですか?」
 「そうです」

 私が驚きながらそれを熱心に見たり写真を撮っていると、ケースの中からその古くて分厚い大きな点字図書を取り出してくれました。
 私は恐るおそる、およそ170年前から伝わる遺品に手を触れてみます。
 硬く乾いた紙質の点字が、指にカサカサと音を立てて当たりました。

           

 頭のなかが空っぽになるような、あるいは何かで溢れるような感覚がしました。
 時間も国籍もかんたんに超えて、ブライユと友人同士になっているような、とても不思議な感覚だったのです。

 ふと、そんなタイミングで、足もとに一匹の猫が来ました。
 この猫は、先程みた一階のブライユの父親の馬具工房にいた猫です。
 たくさんの黒ずんだ工具に埋ずもれて、バスケットの中で丸くなって眠っていました。この博物館の飼い猫なのでしょう。
 その猫が、自分で階段を上がってやってきたのでした。

 私は猫アレルギーですが、妻は大の猫好きなのでずいぶんと喜んで、「君は何ていう名前なの?」といってしゃがみ、猫の首や頭を撫で回していました。

 200年も前から建っているこの小さな村の静かな博物館に、口髭を蓄えたメガネの案内人のおじさんと、一匹の猫がいるなんて、私たちはまるで絵本の世界に迷い込んでしまったようでした。

 さらに階段を上がると、そこは資料室です。
 マリさんは鍵の束を持ち歩き、別の場所に移るときに注意深く部屋や棚に鍵をかけ、次の部屋と棚の鍵を開けます。そのつど、ひとつずつ熱心に説明してくれるので、度々、鍵の束を「私はどこへ置いたんだったかな?」と忘れがちでした。

 三階の資料室には、この点字博物館がオープンの時に訪れていたヘレンケラーの直筆サインや写真が飾ってあったり、さらに隣の資料室倉庫には、各国の点字図書や点字タイプライター、点字教材、点字の施された色々な物品、記念品などが雑然と保管されていました。

 私たちは一度、博物館を出ました。
 マリさんのお昼休みを随分削ってしまったのですが、彼は根っからの善意の人で、構わないといって案内し続けてくれました。私たちのほうが疲れてしまうくらいに。
 
 この景色も空気もきれいなクプヴレ村は、木立はまだ、ちらほら芽吹いているだけで、春爛漫のタイミングを計っているようでした。
 川の流れ。
 林。
 なだらかな畑地と可愛らしい家々。

 パリの不衛生な盲学校で教師兼演奏家としてハードな生活を送っていたブライユは、この美しいクプヴレ村をとても愛していたといいます。
 当時の交通手段は馬車だったと思われますが、それでもパリから35キロも離れているクプヴレの実家に、週末にも可能な限りは帰るようにしていたそうです。

 帰省したときは、身体の具合も良くなったといいます。
 日中は葡萄畑や道を散歩して新鮮な空気を吸い、室内では本を読んだり、ピアノを弾いたり、カードゲームやチェスを楽しみました。
 4人姉弟の末っ子の彼は、両親や姉たちの愛情に満ちた家庭で、こうしてのどかな休日を過ごしたそうです。
 生涯独身だったブライユには、ここが唯一家庭のある場所でした。

 博物館では午後の二時間ほど、小学校の生徒たちがきてレクリエーションがあるということで、私はもう一度あとで訪問すると約束して、いったん博物館を出ました。

    *

 午後三時。
 ランチには遅く、駅周辺の街まで戻ってもなかなか開いているレストランはありません。
 さらに悪いことに、どんよりと曇った空から大粒の雨が降ってきました。

 ケバブ料理のレストランが開いていたので、そこで食事を済ませて、もう一度2キロの道程をクプヴレ村まで歩いて戻ります。
 傘を差していても、雨は腕や脚を容赦なく濡らします。
 大手スーパーのカルフールに立ち寄って、手頃な花束を買いました。

 多少迷いながら、傾斜のあるクプヴレ村を上って、博物館ではなくブライユのお墓を目指します。
 とちゅう、村役場前の交差点に花壇の区画があり、そこに背の高い記念碑がありました。
 ブライユの胸像が高い場所に微笑んでいます。裏手に回ると、フランス語の点字アルファベット表の金属板が取り付けられてありました。

 この小さな村から出た世界的な有名人が、なぜか最寄りのエスブリー駅を降りてミュージアムに至るまで、ほとんどまったく宣伝されていないことが不思議でした。
 高らかな胸像をみて、私はやっと安心することができました。

 生前のブライユは敬虔なクリスチャンであり、非常に静かな性格で、自己顕示欲の少ない人だったと伝えられています。
 伝記作家がしばしばエピソード不足で困ったといわれるほどです。
 ですから、故郷のクプヴレ村がささやかにしか彼の業績を押し出していないことは、ブライユの望むところなのかもしれません。

                

      

 ブライユの胸像の記念碑の近くに、丸みのあるロマネスク様式の可愛らしい教会があります。ブライユが洗礼を受けた教会だそうです。

           

 さらに通りを進むと牧草地が広がって、その向こうに共同墓地が見えてきました。
 風が吹き、冷たい雨が肩や脚を容赦なく濡らします。
 私も妻も、びしょびしょです!
 どちらかというと、かなり過酷なお墓参りになりました。
 
           

 誰もいない墓地の敷地にたどり着くと、鉄格子の門扉を開けて歩を進め、おもむろに辺りを眺めました。
 小さくはありませんが、広大というほどでもないので、手分けして探してみます。
 やがて、彼の墓石がわかりました。

 白い、品のよい墓石でした。
 細い金属製の十字架が枕元に立っています。
 フランスのお墓はオリジナリティが高いというか、様式がいくつもあるというべきか、とにかくデザインが多彩です。十字架の形、胸像、家の形、モニュメントなどなど。

 しかし、ブライユのお墓は目立つものではなく、とてもシンプルな石棺型で、そこに花環の装飾と文字表記がのっているだけでした。
 それでいて一つの特徴がありました。
 石棺の頭のあたりに、やはり白い石で作られた小箱が取り付けられているのです。
 ここに、彼の両手の遺骨が納められています。
 さきに記したとおり、彼の体の遺骨はパリのパンテオン霊廟に移されたので、それ以外の石棺の中は空っぽだそうです。
 
               
 
 不思議なことは、ときどき起こるものです。
 私たちが、まさにブライユの墓前に佇んだそのとき、
  ――不意に、雨が上がったのでした。

 暗い雲が裂けて優しい青空が見えました。
 風雨はとたんに春の涼風に変わり、私たちは肌心地の好さに思わず声をあげました。

 傘を畳んで、さっき買ってきた花束を、自分の飲んでいた水の入ったペットボトルに生けて、枕元にあるプランタの側に置きました。この置き方は日本式かもしれませんが・・・

           

 そして、じぶんの両手を彼の両手の入った箱に重ねて冥福を祈り、心の中でブライユに語りかけたのでした。
 写真もたっぷり撮りました。

   *

 ルイ・ブライユ博物館に戻ると、マリさんは車椅子に腰掛けた訪問客を案内中でした。

 私たちはブライユの家の庭に出ました。
 なだらかな斜面が芝生になっていて、その向こうは葉の落ちた森になっています。
 周囲には小さな花も咲き始めています。

 さっき上がったばかりの雨の露が、草木や花を濡らし、ちぎれ雲を浮かべた水色の空が、太陽の光をときどき地上に投げかけて、庭や私たちを照らしました。
 いろいろな小鳥の声がどこからか聞こえてきます。
 自然の香りと湿気をたっぷり含んだ空気が美味しく感じます。
 この芝生の庭から、クプヴレ村の風景の眺望が見わたせます。
 なんて美しい街なのでしょう。
 ここは、パリとはまったくの別世界です。

           

 訪問客を送り出したマリさんに、いくつもノートに用意していた質問に答えていただいてから、博物館のオリジナル記念葉書を何枚か買って、帰路につくことにしました。
 するとマリさんは「送りましょう」といって、じゃらじゃらと鍵の束を持って出て、戸の鍵を閉めてバス停まで案内してくれました。

 マリさんはお茶目な態度で、バス停とは逆側に道を渡って、キヲツケをして言いました。
 「ここに、こうして立って待っていて下さい。もうすぐバスが来ます」
 
 マリさんにお礼を言って、固い握手を交わします。
 マリさんは、水たまりの照り返す眩しい通りを引き返していきました。

           

               

 バスは、私たちが歩いてきた道とは違う経路で、花々や庭の美しい高級住宅地を縫って、エスブリー駅まで行きました。

           

 駅からまた国鉄に乗って、パリ市内の東駅まで帰りました。
 電車からみても、クプヴレ村は川と森と畑の多い美しい農村でした。
 ブライユの生家をめぐる小旅行を満ち足りた気持ちで思い返していたら、帰りの30分の乗車時間はまさにあっという間に過ぎました。

 東駅について、私たちは構内のガラス張りのカフェに入り、カプチーノで一呼吸おいてから、気を張り直して、人混みのパリ市街に戻ったのでした。