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3 点字発祥の地(旧王立盲学校跡、現パリ第28郵便局)
2010年3月24日(火)
異国での生活は疲れます。
今日はオフにしようと決めて、安宿の狭い部屋で休んでいました。
ベッドの上に寝転がって、おもむろに本を開きます。
『点字発明者の生涯』をぱらぱらと眺めていると、ふと気をひく段落がありました。
「1935年、王立盲学校のあった建物は、ついに完全にとりこわし業者のつるはしに消えた。いまは、エコール通りと、カルディナル・ルモワーヌ通りとの、交差点わきのその跡地に、パリ第28郵便局の建物がたっている。」
すでに陽の傾き始めている時刻でしたが、気まぐれな私は、体を起こしてさくっと身支度を整えて、メトロに乗って王立盲学校跡地に行ってみることにしたのでした。
ブライユが学生生活を送り、また教師兼演奏家となって活躍した昔の盲学校は、かつてカルチェ・ラタン地区にあり、その跡地が現在は郵便局になっている。
――その場所を目指します。
この日は町の所々に甲冑姿の警察官やパトカーがいて、テープで封鎖された道路もあり、なんだかざわざわした雰囲気がありました。
ふと見ると、大勢のデモ隊がプロパガンダの書かれた旗やマーク入りの巨大な風船とともに、通りを横切っていきました。
私には何のデモかもわかりませんでしたが、気にせずにブライユの足跡を求めて散歩に出たのでした。
ふっくらと盛り上がった地形になっているカルチェ・ラタン地区。郵便局は、そのふもとの辺りにあるはずです。
先日訪れたパンテオン霊廟がカルチェ・ラタンのいただきにあるとして、その裏手から石畳の長い坂道をずーっと下りきったところを目指します。
パリ市内地図をポケットから取り出して、ここらへんかな、と思いながらぶらぶら歩いて行くと、カルチェ・ラタン地区のセーヌ川にほど近い五差路の一角に、黄色い封筒のシンボルマークの Le Poste、パリ第28郵便局がありました。
車通りの多い五差路の角のうち別の二つは、例によってレストランカフェになっています。
外から郵便局を眺めて、思わずはっとしました。
外壁に設置されているATMの斜め上方に、ステンレス製のパネルが掲げられています。
あの横顔の線画は、ルイ・ブライユです。ここが点字発祥の地であることを示しているのです。
しかし、銘板があの高さにあっては、誰も手に触れることができません。
私は少し残念に思いながら、郵便局の中に入って職員の女性にたずねました。
「ここは旧盲学校跡地ですよね。何か記念になるルイ・ブライユのグッズは売っていませんか?」
かろうじてコミュニケーションが取れて、その女性職員は上司の男性職員に相談してくれています。彼らは店内のあちこちを指さし(あれは、・・・違うしなぁ。これはどうだ?)といっているような悩ましい態度をしばらく続けてから、「申し訳ありませんが、そういったものは何もありません」と残念そうな表情で返答をくれました。
手ぶらな心地で建物を出ました。
それでも私は、ブライユがここにいたのだと想像すると豊かな気持ちになりました。
夕方の小風が優しかったせいもあります。
1784年、ヴァランタン・アユイという人が私立の盲学校をここに設立しました。
盲学校はその後、私立から国立、帝立、王立と、政体の変化に伴い呼び名も変化しましたが、施設としての盲学校は維持されました。
1821年、この場所にいたピニエ校長のところに、砲兵士官で発明家だったシャルル・バルビエが、軍事用の通信技術として発明した12点点字を盲人用に応用してはどうかといって持ってきました。1823年秋、バルビエ12点点字の、盲学校生徒たちによる試験的な使用が始まります。
1825年頃、優秀な生徒であったルイ・ブライユ少年が、若干16歳の時にそれを独自に改良して6点点字をつくりました。
この場所には、点字の物語がぎゅっと詰っているのです。
それを思うと、足もとがそわそわしてくるのでした。
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現在のこの場所は、車通りの多い一般的なオフィス街になっています。
横浜の山下町の裏手あたり、と言われてもしばらくは疑わないかもしれません。
しかし19世紀前半には、まだ血生臭いフランス激動期の風が吹き残り、ブライユの通った盲学校校舎にも聖職者が何人か突き落とされ虐殺されたりといった歴史が、おどろおどろしく染みついていたりしました。
当時のカルチェ・ラタン地区は、ゴミが散乱する不衛生な地域でした。
ブライユたちのいた5階建ての盲学校校舎の中も、風通しの悪い冷たい施設で、汚水の悪臭が充満していたといいます。
狭い部屋で学ぶ500人ほどの生徒たちは、月に一度ずつしか入浴ができなかったそうです。そんな劣悪な環境のために、盲学校にいた人々は病気がちで、寿命は短かったそうです。
ブライユも26歳で結核にかかり、43歳の若さで人生を終えています。
できることならそんな忌々しい不衛生だった土地の歴史を、郵便局としては忘れてしまいたいのかもしれませんね。
今のカルチェ・ラタンはその頃とは違います。
美しい憩いの生活空間と呼べる場所もたくさんあります。
郵便局の前で目を閉じてみると、杖を片手にブライユが建物から出てきて、路上のゴミを蹴散らしながら石畳を歩いて行くような空想にかられました。
バロック音楽のメロディーを鼻歌で口ずさみ、通りを馬車が追い抜いていきます。
目を開けると、排気ガスを吹き出しながら、自動車がアスファルトの道路を行き交っています。道のカタチは大体同じだったかもしれませんが、周囲の建物はすべて当時とは違います。
つまり、何もかも当時とは違っていたのでした。
私がここにブライユの足跡を求めて散歩に来たことも、本質的にはほとんど無意味な行為だったという気さえしてきました。
日の落ちた曇り空は、まだ暮れ残っていました。もういちどブライユの横顔の記念プレートを仰ぎ見て、それから私は帰路につきました。
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