2 ブライユの石棺(パンテオン霊廟) 

 2010年3月22日(日)

 3月の中頃。
 日本は桜を待ちわびる季節でしたが、フランスに到着すると、そこには分厚いコートと襟巻きで防寒しなければ耐えられない冬がありました。
 街路樹がことごとく冬枯れている街並みは色彩に乏しく、ひどい排気ガスと喫煙者たちの副流煙で覆われているのでした。

 芸術と装飾的な建築であふれかえるパリの街並みに、初めは圧倒されていました。5日ほどして興奮が落ち着いてきて、やっとルイ・ブライユにまつわる場所を訪れたい気持ちが整ってきたのでした。


 街には至るところにカフェがあります。「ボンジュール!(こんにちは)」と言ってカフェに入ります。パリ市内はだいたいレストランもカフェも価格が高いので、いちばん安価なエスプレッソを頼みます。

 席について、日本の図書館で借りてきた『点字発明者の生涯』という本を開きました。
 ブライユの遺灰がパリ市内のパンテオン霊廟に納めてある、という記事が目に止まったので、まずはそこへ行こうと決めて、テーブルに料金分の小銭を置き、「オヴァ!(さよなら)」と笑顔で言ってカフェを出ました。
 気ままな私の、ブライユ紀行のはじまりです。

 パリ市は、まあるい山手線に形も大きさも似ているといわれます。
 ざっくりいえば縦8キロ横11キロほどのいびつな楕円形で、そこをセーヌ川が「へ」の字の形で横断しています。
 目指す場所は、パリ市南部のカルチェ・ラタン地区。パリ大学やソルボンヌ大学などがあって、お洒落なカフェやレストランも多い、落ち着いた地域です。

 盛り上がった地形の頂上にパンテオンがどっしりと構えているのが見えます。
 パリで一番の高台。
 それは石造りの重々しい大きな霊廟でした。正面からの外観はギリシアのパルテノン神殿のようで、縦に筋の入った非常に太くて高さのある円柱が正面に何本も並んでいます。人間が小さく思えるくらいの大きさです。

 この建物の中にはフランスの偉人たちの遺体がたくさん安置されていて、わかりやすくいえば、著名人たちのミーハーな石棺安置所といったところでしょう。

            

 入場料は8ユーロ。中に入るとひんやり、どころか冷たく張り詰めた空気に凍えるほどです。石造りの建て物が中の空気を冷やしているのでしょう。
 薄暗い壁に描かれた大きな壁画も壮大です。巨大な石像もいくつか配置されています。

 高い天井は、いくつかの装飾の施されたドームになっています。そのひとつから一本のワイヤーが下りていて、床のそばで円い鉄球を吊してゆっくりと揺れています。
 科学者のフーコーがこの場所で昔、有名な振り子の実験をしたそうで、なんでも地球の自転を証明したのだそうです。その実験が再現されています。

                 

 奥まで進むと、両端に地下へと続く階段があります。そう、パンテオン霊廟にあるはずのたくさんの石棺は、地階に祀られているのです。

 地階の冷たい空気はほんのりと止まっているようで、やさしい色味の間接照明が頭上に設置され、やすらかな気分にさせられます。同時に、アーチ状のトンネルが織りなす地下回廊は、少し怖いような気もします。
 それはそうですよね、遺体の入っている厳かな棺桶があちらこちらに並んでいるのですから。

            

 案内地図でブライユの石棺の場所の検討をつけて進みます。ジャン・ジャック・ルソーの棺桶がすぐそこにあります。あちらのほうにはキュリー夫妻の石棺があります。
 次々に枝分かれしていく石造りの廊下を進みます。

   *
 
 角を曲がって、思わず立ち止まりました。
 象牙色の間接照明があるだけの、ほの暗いこの空間において、極めて異質な、真っ白い光が見えます。そして、やはりこの地下室には特別に置かれている、胸像がひとつ見えます。
 それは、ルイ・ブライユの胸像でした。

 石棺部屋の並ぶ廊下を進み、文豪ヴィクトル・ユゴーの石棺室、文豪エミール・ゾラの石棺室をおずおずと過ぎて、その隣の石棺室の前で立ち止まり、私はブライユの胸像の前で頭を下げました。

 漆黒のパネルに、バックライトで皎々と浮き上がるアルファベットと点字。
 ブライユを紹介している文章なのでしょう。
 そして、彼の手書きのサインをかたどった小文字のローマ字が、同じように白光りして、文字のまわりにもぼんやりと光の羽毛をまとっています。
 弱視の人にも、その白い文字が見えるかもしれません。

           

 きっと訪れた人は皆、浮き出たプラスチックの光輝く文字を指でなぞることでしょう。全盲の人も、弱視の人も、晴眼の人も。

 ブライユの胸像をてのひらで撫でながら、その背後をちらりとのぞくと、部屋の内部の左右に、それぞれ前後に二段ずつ、石棺が並んでいます。
 つまり、ひとつの部屋に8名が納められているのです。
 ブライユの石棺は、左列手前の上段です。立っている場所から2メートル程先のところに、彼はいまも眠っています。くすんだ石の質感が、時の流れをも封じ込めているように見えました。
 
           

 私は心の中で挨拶をすませて、感慨いっぱいのまま建物から出ました。
 外の空気は温かく、穏やかでした。曇り空の雲間からほんのりと優しい青空が見えます。
 柔らかく西日が射して、パンテオンの大きな柱を照らしています。
 その空気を思いきり肺に吸い込みながら、正面の通りをまっすぐに眺めると、ふとその先に霞んだエッフェル塔が見えました。

 ブライユは1852年1月6日に43歳でこの世を去りました。
 アンヴァリッド通りにある国立盲学校聖堂で告別のミサが行われた後、彼の遺体は一度、彼の故郷クプヴレ村の墓地に埋葬されました。

 それから百年の歳月が過ぎた1952年の初夏、クプヴレ村の墓地には彼の両手の骨だけを残し、身体本体の遺骨はこの偉人たちの霊廟パンテオンに移されてきたということです。