5 ヴァランタン・アユイ博物館 2010年4月14日(水) 先日訪れたクプヴレ村のルイ・ブライユ博物館で、案内係のマリさんが教えてくれたことがあります。 「パリにあるヴァランタン・アユイ協会の中に、資料や点字関連の機器がもっとたくさん揃っている博物館があるよ」 私はさっそく、ヴァランタン・アユイ協会の中にあるという、ヴァランタン・アユイ博物館を探すことにしました。 毎度のことながら調べ不足で、『点字発明者の生涯』には、パリの「アンヴァリッド通りにある」とだけあったので、それをたよりにぶらぶらと歩いてみました。4月12日のことです。 アンヴァリッドというのは、ナポレオンのとんでもなく巨大な石棺が安置されていたり、教会があったり、戦争博物館などいくつもの博物館が含まれている、とても大きな建物です。 乳白色でドームが載っていて、パリを代表する有名な建築物のひとつ。 私はその周辺を数時間歩き続け、人に尋ねながら、やっとヴァランタン・アユイ協会に辿り着きました。ブライユが晩年勤めていたというパリ国立盲学校「インジャ」(INJA)と隣り合っています。 聞いていたとおり、その博物館は火曜日と水曜日のみ、午後の数時間だけの開館とのこと。 日を改めることにして、視覚障害者用の用具販売窓口で、フランス製の携帯用点字器を記念に購入して帰りました。 二日後、私は開館時間の2時半にそこを訪れました。 受付の女性はにこやかに、速やかに内線で二階の博物館と連絡をとり、私を廊下の奥に招き入れてくれました。 「入場料はいくらですか?」と尋ねると、「無料よ、タダよ」とスマイルをくれました。 道順を教えられて、廊下を進み、何枚もステンレスの重い扉を押し開けて、廊下に張られた案内矢印にそって階段を上がります。 博物館は二階にありました。 ノックをして、おずおずと扉を開けます。 ヴァランタン・アユイ博物館。 木調のシックな、広い教室のような一室が、この博物館の一般展示の空間です。 展示ケースがあちこちに配置され、大きくて古い点字地球儀があり、ブライユの胸像がありました。 眼鏡をかけた年配の知的な女性が一人、窓際の大きなデスクから微笑んで声をかけてくれました。 私は挨拶をして、そしてとりあえずその部屋を静かに一巡しました。 点字タイプライターや点字を打つための機械が、年代毎に整然と並べられています。 古い点字器や、点字が発明されたころからの資料がウィンドウの中で開かれています。 眼鏡の女性はロイさんというかたで、この博物館の責任者です。 ロイさんは、黙々と英字の印刷資料を用意して私に手渡し、一緒に回りながらざっと説明をしてくれました。 ここは、点字文化にとってまさに宝物庫です。 私は許可を得て写真を撮りまくりました。 じつは、私の脳裏には点字とは少しズレたところにある興味が、このところ立ち上がっていました。 『点字発明者の生涯』を読んでから知ったことですが、ルイ・ブライユが点字を開発した頃の前後に、まるでウゴのタケノコのようにいくつもの盲人用「薄浮彫り文字」が発明され、やがて消えていった歴史があったのです。 そのひとつに、ブライユが晩年に開発したものもあります。 点字と同じようにドットで構成されたアルファベット。 なんと視覚障害者と晴眼者の兼用文字で、発明家ルイ・ブライユの志の高さがうかがい知れます。彼の創作意欲は、点字アルファベットや点字音楽記号を完成させた後も衰えることはなかったのです。 さて、これらのいくつもの失われた盲人用文字の存在に、私は魅了されていました。 私の趣味は点字フォントを作ることですので、帰国したらこれらの文字をフォントとして現代に甦らせてみよう、と思ったのです。(現在、製作中です。) 質問をすると、ロイさんは黙然と鍵の掛かっている棚を開け、そこから古い資料や古い不思議な形の点字器を取り出して見せてくれました。 じゃらじゃらと鍵の束を持ち歩き、こっちの木製の棚を開けて、170年ほど前の何冊もの点字文書のファイルを出してくれます。 私はそのごわごわした古い資料をめくり、写真を撮りました。ロイさんはまたじゃらじゃらと鍵の束を持ち歩き、別のガラス棚から参考になりそうな図書を取り出して見せてくれます。 「これは『点字発明者の生涯』のフランス語版ですね!」 ロイさんと私は、同じ内容のページをフランス語と日本語とで開き比較して、私はこの本を利用して、また別の質問をしたりしました。 しばらくして、ロイさんは困った顔で部屋を見渡しました。 「あれ? わたし、どこに鍵を置いたかしら?」 私もきょろきょろと見回し、「あのガラス棚の鍵穴に刺さっています」と指さします。 フランス人はみんな、鍵の束を置き忘れる癖があるようです。 私が二時半にこのヴァランタン・アユイ博物館を訪れてから、閉館時間をとうに過ぎた五時半に部屋を出るまで、ひとりのお客さんも来ませんでした。 おかげで、私は静かに170年前の貴重な資料と向き合うことができましたし、ロイさんからたいへん親切に様々なことを教えてもらえました。 時間が止まっているような一室だけの博物館。 そこは、その時代その時代の点字文化が、そっと降り積もって確かに残っていく貴重な場所でした。 * 後日談があります。 このヴァランタン・アユイ博物館は、世界中の点字に関する資料や物品を集めていますが、私が訪れたときにロイさんが、 「これは日本の絵なんだけど、どういうものか分からないの」 といって、見せてくれたものがありました。 古い江戸時代の掛け軸で、眼をつむった僧侶が座禅を組んでいる線画のような墨絵でした。 右下には「蝸堂謹画」という達筆な署名があり、「徳」という一文字の赤い捺印があります。 メモには「Sigiyama Kengyo」とありました。 歴史にも美術にも疎い私には、さっぱり分かりませんでしたが、帰国してインターネットであれこれ調べているうちに、やっとある情報に辿り着いたのです。 蝸堂は、そこそこ有名な江戸時代の画家でした。 そして絵のモデルは、杉山検校。シギヤマではなく、スギヤマです。ケンギョウというのは、室町から江戸時代にかけて設けられていた、盲人の役人の最高位の官名のことだそうで、杉山検校の本名は杉山和一(ワイチ)といいました。 杉山和一は1610年生まれで、独自の鍼の方法を開発したり、盲人のための道標を建てたりしたそうですが、特記すべきは「世界初の盲人教育施設の設立」らしいです。 按摩の技術を教えるその学校が開校したのは、1680年前後のことだそうです。 一般的には世界最初の盲学校設立が1784年、ヴァランタン・アユイによって設立されたパリの盲学校ということになっていますが、それよりも百年ほど早いということが、ウィキペディアには載っていました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E6%A4%9C%E6%A0%A1 帰国して、ロイさんにお礼のメールに写真と一緒に、この「Sugiyama Kengyou」についての情報を(私には、この情報の真偽の程は分かりません、と添え書きしつつ)添付して送信しました。 すると、2ヶ月ほどしてロイさんからメールがありました。 メールに添付されていた書類は、なんと、ロイさんが書いたヴァランタン・アユイ協会会報用の小論文でした。 そこには、その日本の掛け軸と杉山和一についてのことが、私が博物館を訪問してきたという思い出と一緒に綴られてありました。 |
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