{ 晴眼者の点字教育そのものの問題 }
点字を紹介する一般書はいくつも出版されていて、私を含め、点字に興味を抱いた人にとっての重要な点字理解への糸口になっています。 そういった本の存在はありがたいものです。
しかし同時に、読んでいる時、どこか言い知れぬ抵抗感を私は感じることがとても多いのです。
せっかく興味津々で点字を知ろうとしているのに、なにか非常に自由の利かないような、しがらみのような複雑な感覚がつきまとう。 それが何なのか、私は次第にはっきりと分かってきました。
それはひとことで言えば、本の著者が読者を「役に立つボランティアのたまご」と捉えているからです。
人は誰しも、だれかの役に立ちたいという欲求をもっています。
ボランティアではその気持ちが社会で生きて、実際にひとの役に立ちますが、ボランティアをする人も、存在と活動の意義が認められて精神的に支えられるという相互作用が生まれます。 逆に言えば、人と人との間で相互作用が生まれないボランティア活動は失敗となるでしょう。
ところで、そもそもボランティアは好意・善意によって行なわれるものです。
強制されるボランティアほどナンセンスなものはありません。 それでは奉仕活動ではなく、労働を搾取されることに他ならないからです。 (ちなみにボランティアは無料奉仕活動が基本であり、慈善活動であってもそれを仕事としている場合は含まれません)
ところが点字の入門書には、そのところの意識が曖昧にすぎるものが多いのです。
するとそういう入門書がどうなるかというと、「点字を万人に広めたい」とあり、「皆に楽しく点字を学んでほしい」と書いてあるのに、「点訳の際には絶対に間違ってはいけない」とか、「点字学習の最終目的は点訳文書を視覚障害者に読んでもらうこと」と、表現されてしまいます。 もちろん、意見としては両方とも正論です。 しかし、多くの人に楽しく点字を知ってほしいということと、点訳者を育て正しい点訳を盲人の方に届けたいという目標とは、別個の二つの方向性と捉えるべきです。
二兎を追って目標を交錯させたまま点字を紹介すると、点字の初心者は混乱します。
そのことを念頭において、点字の学習本をみてください。
ほんとうの意味での「晴眼者のための、点字を勉強する本」は、残念ながらあまり見当たらないはずです。 つまり、ただ偶然に点字に興味を持った人でも、点字に関する本を手にとった瞬間から、自分の興味を満たすためではなく、点字ボランティアになるための教科書を手に取ったということに他ならなくなります。 そういった本で、万人が点字を楽しく学べるとはとても思えないのです。
子供向けのバリアフリーの本には、読者が楽しむための点字本・点字教育本がいくつもあります。
おとな向けの点字本に足りないのは、まさにこの感覚だと思います。
{ 自分自身のために学ぶ }
点字は他人のためでなく、自分のために学ぶように筋道だててあげるべきです。 子供用のバリアフリー本がそうであるように。
ただ楽しい点字の本があっていいと思います。 大人が自分でほしいな、と思って趣味で買っていく。
そんな点字の本がたくさんあってもいいと思います。
点字識字率が一般の晴眼者の間で上がれば、障害を持つ持たないの境が薄くなるというコミュニケーション上のメリットがあるだけではありません。
ひとつ表現手法が増え、表現の自由度が大きくなるので、その文化自体が豊かになるのです。
ですので、点字利用者が利己的な精神であっても、点字が広まることは良いことだと私は思います。
そもそも障害や病気を持つ可能性は、誰にでもあります。
今日の晴眼者が明日、視覚障害を持つ可能性だってないわけではありません。
その意味でも、晴眼者が点字を覚えておいて損はありません。 じっさい、中途視覚障害者の方のほうが点字習得率が低いのですから、人のためでなく自分のためにも点字を覚えておいていいのです。
{ 小さい点字出版市場 }
社会福祉を完全なかたちで資本主義経済の荒波にさらすことはできませんが、当然のことながら、深い関係を相互に持っています。 現実に例えば、点字出版物の市場の小ささはそれゆえです。
点字の出版物はお金が掛かるし、出版部数も限られるので、作る人間が減る。 この悪循環が、市場に慢性的にあるといいます。
点字が晴眼者に門戸を狭めている弊害が、ここでも出てきていることが想像されるのです。
点字のバリアフリーの出版物は、さらに少ないようです。
いいえむしろ、「数えるくらいしかない」という表現が当っているでしょう。
実際に出版に携わっている方に聞いた話では、それは仕方がないのだそうです。 まず需要が少なく、制作にもコストがかかりすぎるというのがその理由です。
印刷した本に点字を打つと、単純に2回印刷する換算になってコストが倍掛かり、さらに不規則に凹凸する点字がついた紙を本として仕上げるときに、きれいに裁断する技術が今もなお不完全なのだそうです。 一枚一枚紙を挟んであとで取り除くとか、あとで切り落とすとか、そういった工夫をおのおので試されるそうですが、それでもコストが膨れているため、本の値段を上げ、助成金を得て、しかもページ数をグッと抑えてやっとのことで出版に至るといいます。
こうして点字のバリアフリー本は、内容が物足りないのに非常に高価な品物として、ほとんど市場経済に乗ることができない状況が続いているのです。
しかし私がアウトサイドから見ていて感じることを正直に申し上げれば、点字業界の努力と工夫の仕方が、ある面において非常にお粗末なのです。
ある面とは、大人の晴眼者への点字紹介・点字教育という面であり、そこへ市場を広げようとする活動の質と量です。
{ 点字のルールの弊害 }
晴眼者にも点字を広げるべきだという目標を立てたところで、本質的な問題がもうひとつあります。
点字のルールが難しい、ということです。 語学の難度は、利用率へと反映されるでしょう。
点字は基本的に母国語に根ざすものですから、工夫は必要でも、本来そう難しいものではないはずです。 ところがご周知のとおり、点訳は初心者が気軽にタッチできるものではありません。
理由は簡単です。 ルールが必要以上に煩雑だからです。
点字のルールを決めるのは、現在は日本点字委員会が国内唯一の制定機関として定められています。
日本点字委員会とその周辺とが担ってきた役割と社会貢献の大きさは、恐らく一朝一夕に語りえるものではありません。 点字の規則の制定には、時代ごとに専門家がそれぞれの立場で熟考を重ね激論を交わして行なわれているそうです。
それでもなお、これで完璧だというルールには到っておらず、改正の度に規則は変化し、さまざまな注意や例外事項をその都度覚えないと「正しい」点訳ができないという状況が生まれています。
さて、欧米でも「正しい」ルールの制定は一筋縄では行かないようですが、英語の点字をみてみるとGrade1と2、ないし3と文法が分類されています。 Grade1は初級者用の点字表記で、アルファベットがそのまま点字に置き換えられています。 Grade2は上級者向けで、速読を実現するために省略形が多用されます。
{ 初級点字の提案 }
どうして日本では、英語の点字ような丁寧で親切な分類がなされないのか?
表記の多様化を危惧するのは分かります。 しかし、点字の利用が一般の人にとって難しくなり、点字識字率を抑えてしまっては本末転倒です。
ふつう、正しい点訳ができるようになるには、何ヶ月とか何年という時間がかかりますが、それでは一般の人にはあまりにも敷居が高いというものです。
現行の点字の規則も、基本はそれほど難しくありません。
分かりやすく工夫されているからです。
難しいのは、例外の規則なのです。
私は非常に不思議に思うので、「初級点字」を提案します。(点字検定の級とはもちろん別物です。)
提案といっても、たいした提案ではありません。 英語の点字の亜流です。
煩雑な点訳のルールや例外事項をバサッと切り落として、点字をまったく知らない人でも3時間ほど勉強すればすべて理解できるようになる。 そういう簡易な点字規則を目指すのです。
「初級点字」を決めるとしたら、ごく基本のルールのみを貫くという形がいいと思います。
具体案です。
「わ」「え」の発音をする「は」「へ」は、「わ」「え」に換えるという点字のルールは踏襲するとしても、長音化する「う」に関しては、現在の点字のルールをやめ、活字表記のままにするのがベターだと考えます。
なぜなら、そこからが急に厄介になるからです。
「東京」は「トーキョー」、「気流」は「きりゅー」、ですが、「思う」は「おもー」ではなく「おもう」、「掬う」は「すくー」ではなく「すくう」で、そう点訳する「理由」(りゆー)がはっきりしません。
じっさいの活字の朗読では、長音化する「う」においても微妙に「う」を意識します。「とうきょう」と読んでも、「おとうさん」と読んでも、間違った日本語の発音だとは言い切れません。
そして、いつも例に出される「お父さん」は「おとーさん」だが「お母さん」は「おかあさん」とする「『う』のみの長音化」も、そうする理由が不明確です。
つまり、「発音どおり」と「活字どおり」とを区別する理由づけが、そもそも明瞭でないのです。
とにかく、初心者向けの点字では、説明に難しい文法用語を必要とするものは、すべて排除するべきでしょう。
そのために、分かち書きも「文節ごとにする」とすることにします。
これなら「自然な発音の区切れで区切ればいい」ので、とてもわかりやすいからです。
試してみましょう。
「あの人と、あの頃のあどけない、でも懐かしくないさっぱりした記憶を辿ってみる。」
というごちゃごちゃした例文を「文節ごとに区切る」ために「ネ」を挟むと、
「あの人とネ、あの頃のネあどけないネ、でもネ懐かしくないネさっぱりしたネ記憶をネ辿ってみるネ。」
となり、つぎのとおり単純明快に分かち書きができます。
「あのひとと、/あのころの/あどけない、/でも/なつかしくない/さっぱりした/きおくを/たどってみる。」
しかし、現在の点字のルールに沿った「正しい」分かち書きによれば、
「あの/ひとと、/あのころの/あどけない、/でも/なつかしく/ない/さっぱり/した/きおくを/たどって/みる。」
となります。
解説をしますと、「基本は文節ごとに区切ります」が、ただし「連体詞は1語で完成されるものは区切らず、それ以外は区切る」、「形容詞のシク活用などの否定形は区切る」、「副詞などに続く独立した『する』は区切る」、「補助動詞は自立語なので区切る」ということになります。
・・・点字の勉強の前に日本語の文法の勉強が必要になりそうですね。
※〈2019.10 追記:上記の私の「分かち書き」は、文法的にあっていないかもしれません。単に「ネ」を挟む場合にも、主観によって判断に揺れが出ます。ただ、この時に私が申し上げたかったのは、初学者の点字に揺れが出てもいいのではないか、許容すべきだ、ということでした。そして、ソフトウェアで自動翻訳ができるようにするよりも、人によって訳に差が出るほうがむしろ翻訳者の個性がにじみ出てよいのではないか、と思われるのです〉
{ トップダウンからボトムアップへ }
言葉や文字は本来、民衆が使用する過程で変化し練り上げられていくものですが、その初期の発達段階では上層部から下層部へという流れがあります。
ちょっと逸脱して例を挙げれば、朝鮮では1446年の漢字廃止とハングルの公布、ベトナムでは20世紀初めにベトナム漢字チュノムの廃止と改変ローマ字によるベトナム表記が公布され、中国では戦後、繁体字を廃止し簡化字を公布していますが、これらはすべて研究開発と選出決定を経て、権力機関によって公布され、民衆に強制的な形で広められました。
日本でも、大陸語が渡来してくる過程で言葉が変化する時は、いつも権力者から大衆へというトップダウンの流れがありました。 現在でも、漢字がちょこちょこと改変される際には委員会を通じて文部科学省からのトップダウンという形をとります。 ただその準拠の状況はまちまちで、使用者の意思が尊重されるので、強制力によって表現が規制されるということはありません。 このことは、現代の日本社会において言葉や文字が、真に積極的に活用されていることを示しています。
言葉の文化が熟してきて活発になると、トップダウンでなく、草の根から文字や言葉に変化が現れます。
平安時代の女性たちが作ったひらがなはその典型ですし、中国の簡体字の多くも元は民衆の生活の中で生まれたものです。 アルファベットもそうです。アルファベットは、エジプト神聖文字のヒエログリフを、奴隷たちが自分のものとして発達させたものです。
ボトムアップで出来てくる文字は、とりわけ活き活きとエネルギッシュに、民衆の生活の中から自主的に育ってくるのです。
そして、ほかならぬ点字のフランスでの発達がそうでした。
現在の日本の点字利用の現場に、ボトムアップの力はどれくらいあるのか。 私は存知ないのですが、
「絵点字フォント」が、その力のひとつとなれるように、努力したいと思っています。
2008年2月
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