琉球ガラス先史@
●琉球王朝にガラスが渡ってきた時代――前1C〜15C
沖縄に最初にガラス工芸品が伝わった時期は正確には分かっていません。
明確なのは、1459年に焼失した首里城・京の内の遺跡からガラス製の小玉が出土していることです。また沖縄本島やそれ以外の複数の島々からもガラス小玉(南京玉/ビーズ)が出土しており、かなり早い段階から15世紀のあいだにたびたび諸外国から渡来しました。
琉球ガラス先史A
●渡来品の数々―― 〜大正頃
18〜19世紀に成立した正史『球陽』のなかに17世紀の「焼玉」に関する記述があります。仏像の目玉に使われるなどした「焼玉」や技術職「焼玉」について書かれていますが、この「焼玉」がガラス製品やガラス製造を示しているのではないかという説があります。いずれにしても現物は残っておらず、詳しいことは何も分かっていません。
出土品以外で現物が残っている物は17世紀〜19世紀に製造されたもので、たとえば渡来品の勾玉やガラス小玉を用いて作られたビーズ織りの宗教的装飾具などです。
たとえばノロ(祈祷師)の装飾品などは大正時代頃まで使用されていましたが、現代にその文化は伝わっていません。
琉球ガラス先史B
●近代的ガラス工場の設立と展開――1909
日本本土の東京に「品川興業社硝子製造所」が設立されたのが1873年(明治6年)のことで、これが日本の近代的ガラス工業のはじまりとなりました。
全国に広まったその生産技術が沖縄にもたらされたのは、1909年(明治42年)のことと文献にあります。本土からきた寄留商人の玉井商店店主が、那覇市内に「沖縄硝子製造所(玉井硝子工場)」を設立しました。
ガラス職人はみな本土出身者で、作られる製品も本土と同じ生活用品、たとえばランプのホヤ・蠅取り器・薬瓶・菓子瓶・浮玉などでした。この製造所は大正時代末の廃業まで続きました。
琉球ガラス先史C
●第二次大戦とコーラコップ――1944・45
沖縄では第二次大戦までに計4社のガラス工場が設立され、派生・競合・盛衰を繰り返しました。ただひとつ残ったのは「前田硝子工場」でしたが、1944年10月10日の米軍による那覇大空襲で焼失してしまいます。
沖縄は激しい空襲や地上戦で焦土と化し、それまでに作られ使用されたガラス製品もほとんど残りませんでした。
戦争直後には、沖縄県民のほとんどがアメリカ軍の捕虜となりました。生活用品など物資が不足する中、アメリカ軍人が飲んだコカ・コーラの空き瓶を半分に切断して底側をコップにした「コーラコップ(コカ・コーラ瓶底グラス)」を自作して使うことが県民の間で大流行します。
コーラコップは、時代的な苦難の中で工夫して生き抜いた沖縄県民の強(したた)かさを象徴する物品であるとも評されています。
琉球ガラス先史D
●戦後の復興――1949
終戦から4年が経った1949年、前田硝子工場は「沖縄ガラス工業所」として再起し、沖縄でのガラス生産が再開されます。
数年間は、戦前と同じような生活用・産業用製品を生産していましたが、この段階から、すでにアメリカへのガラス製品の輸出も開始されていたようです。
琉球ガラス先史E
●燃料を石炭から重油へ――1951
1951年、沖縄ガラス工業所は「奥原硝子製造所」と社名変更し、やがて琉球ガラスの技術的な母体となります。
この頃、燃料は石炭から重油へと移行されました。
琉球ガラス史のポイント@
●アメリカ世での琉球ガラスの原形誕生――1960頃
アメリカ政府による統治時代をアメリカ世(ゆー)といいますが、この時代に琉球ガラスの原形が誕生します。奥原硝子工場の職人が独立してたてた牧港硝子工場が、最初に舶来物風のスタイルを確立しました。
アメリカ軍関係者がガラス工房を訪れ、メキシコ・アメリカ・ヨーロッパ等のガラス工芸品の現物やカタログを職人に見せ、そういった舶来物風の品物をオーダーしました。
ワイングラス、ブランデーグラス、パンチボールセット、香水瓶、クリスマスの飾り、果物の置物、水差し、たるグラス、ビールジョッキ、モール瓶などです。
また透明よりもカラフルなものをオーダーされ、色のついた廃瓶がそのまま原料として使われるようになります。アメリカ軍基地で消費されるガラス瓶には、色ガラスが多かったのです。それまでの生活用品や産業用品の製造では、透明の廃瓶が主な原料でした(色ガラスの廃瓶もまれに原料に使われました)。
廃瓶では作れない色を出すために、簡単な着色剤も使用されるようになりました。
琉球ガラス史のポイントA
●米国への輸出本格化――1962
こうして生まれた「琉球ガラス」は、まだその名称こそなかったもののアメリカ人には好評でした。そのうちに一般的な生活用品・産業用品は製造されなくなりました。
1962年にはL/C(信用状決済)貿易が導入され、アメリカ本国(サンフランシスコ)などへの販路が確立。またベトナム戦争による好景気に押され、アメリカ軍基地内やアメリカ本国への売れ行きを順調に伸ばしていきました。
アメリカ世のあいだに、琉球ガラスを製造する工場も「沖縄ガラス工場」「牧港ガラス工場」「琉球硝子製作所」「なにわガラス工芸社」と次々に設立されました。また公的機関や民芸店などの開発・流通をバックアップする施設が相次いで設立されまし
た。
琉球ガラス史のポイントB
●ガラス造花の誕生――1968頃
ところで、琉球ガラスの造花は琉球ガラスの1ジャンルとして確立しているメジャー製品ですが、その誕生は「琉球硝子製作所」が設立当初に持っていたアイデアを、台湾からガラス職人を招いて沖縄の職人とともに形にしたのが始まりでした。
モール瓶という巻き筋の入った首長瓶が定番製品としてありますが、モール瓶に2つの取手(耳)が付いたものが主流となったのはこの頃です。耳をつければガラス造花をきれいな形に巻きつけて固定できたからです。
琉球ガラス史のポイントC
●沖縄の日本復帰――1972
1972年より少し前、沖縄の日本復帰決定を機に、琉球ガラス業界は日本人向けの新しい製品・新しい販路を模索し始めました。食器皿・グラス・碗など用の美を求めた民芸品や、ガラス造花・モール瓶などの装飾品が主な製品となりました。それらの多くは、アメリカ人向けだった製品趣向を日本人向けに変革した、新しいタイプの琉球ガラスでした。
日本本土からの観光客は、本土にはないスタイルのガラス工芸品を「南国沖縄のお土産品」として受け止めました。
1970年代・80年前半までのうちに、「国際硝子工芸社」「親富祖民芸ガラス」「琉球共栄ガラス工房」「ぎやまん館」「沖縄寿ガラス」「沖縄伝統工芸センター」が設立され、隆盛を誇りました。工房の観光施設化も進みました。ちなみに、琉球ガラスというネーミングは1970年代に徐々に定着していったようです。
琉球ガラス史のポイントD
●沖縄海洋博――1975
復帰から3年後、沖縄海洋博覧会の開催で沖縄観光ブームはますます勢いを増しました。
琉球ガラス製品の売行きもうなぎ上りだったようです。
琉球ガラス史のポイントE
●建築材料の生産開始――1975
恩納村に建設されたホテルムーンビーチの天井に、板状の色ガラスが設置されました。
これは琉球ガラスが建築材料分野に進出するさきがけとなりました。現在ではガラス板や表札・タイル・照明品などの建材も、琉球ガラスの1ジャンルとなっています。
琉球ガラス史のポイントF
●着色剤の増加――1975頃
それまでにも増して、より南国的に色鮮やかに、というカラフル志向が進みます。
着色剤の種類が急激に多くなり、また、ひとつの製品の中にいくつもの色が使用されるようになっていきました。
現在では、時として「カラフルで鮮やかな色合いなのが、琉球ガラスの特徴」と言われることがありますが、この志向はこの頃の流れに起因しているようです。
琉球ガラス史のポイントG
●生産効率の工夫と、組合の時代へ――1983
オイルショックなどを経て燃料が値上がりし、作れば作っただけ売れていったという時代が過ぎ、琉球ガラス業界は岐路に立たされます。
また工房ごとに時期は違いますが、原料を廃瓶ガラスから新しい原料ガラスへと、多くの工房が移行し始めたのもこの頃でした。
1983年(昭和58年)、県内のガラス工房の7社(のちに6社)が集い、各工房が独立を保ったまま「琉球ガラス工芸協同組合」を設立します。その流れから1985年、窯の共有・共同仕入・共同販売をするために同組合の6社(のちに4社)が1ヵ所にまとまり、「琉球ガラス工芸協業組合」と名称を変え、「琉球ガラス村」を糸満市に設立しました。
のちになって、2008年(平成20年)にはもうひとつの組合である「琉球ガラス生産・販売協同組合」が浦添市に設立されました。こちらでは工房・販売店など7社(のちに8社)が協力し、販売促進や各種イベントを展開していま
す。
琉球ガラス史のポイントH
●泡入りガラスの定着――1983〜86頃
焚きが甘かったり不純物が混入している場合、ガラスに泡が入ります。廃瓶ガラスが主流だった時代、製品をB級に貶める泡を、いかに少なくするかが常に職人たちの課題でした。
その泡を、逆転の発想でデザインに取り入れることが1983〜86年頃に数名の職人それぞれ独自のアイデアでなされ、製品化されたようです。そのうち、のちの"現代の名工"である稲嶺盛吉氏は、泡入りガラスをひとつのスタイルとして定式化させます。その後、稲嶺氏の「泡ガラス」は陶芸的な表現を目指して泡をふんだんに用いる方向へと進みました。
いっぽうで、泡を意図して用いるという趣向は琉球ガラス全体にデザインとして瞬く間に広がり、様々な泡の入れ方・用い方がそれぞれに追求されていきました。
琉球ガラス史のポイントI
●美術品ジャンルへの進出――1985前後
職人たちが昔から遊びで鯉花瓶を作っていたことは知られており、こちらもいわば美術工芸としての花器とみてとることはできますが、一般的には他の生産品とともに生活のなかの装飾用品やお土産品と位置づけられてきました。
しかし1985年の数年前から、職人が個人的あるいは単発的に美術工芸品としての花器を試作するようになります。決定的だったのは、1985年に東京からガラス職人の福圓富信氏が招聘され、琉球ガラスに日本の工芸ガラスの息吹が吹き込まれたことでした。1986年以降には、いくつかの販売店が積極的に琉球ガラスの美術品ジャンルに焦点を当てた展示会を開くなどして、この分野の発展を促しました。
琉球ガラス史のポイントJ
●被せガラス技法の導入――1985
この年、設立まもない琉球ガラス村に東京のガラス職人の福圓富信氏が招聘され、数カ月後には他のいくつかの工房にも招待されて、日本のガラス工芸を沖縄に伝達する役割を果たしました。福圓氏は12歳で渡仏しガラス工房で修行し、のちに岩田藤七に師事し、彼のガラス作りチームに所属した職人でした(なお岩田藤七は、各務鑛三とともに、1920年代後半に日本にガラス工芸の基礎を築いたと評されるガラス工芸作家です)。
この時、琉球ガラスに「被(き)せガラス」の技法が初めてもたらされました。また、古代ガラス(ローマンガラス)やムラーノ島のガラス(ヴェネチアングラス)や、岩田藤七作品などをデザインの手本とした試作がなされ、それぞれの職人は作家として独自の作風を模索していきました。
福圓氏の果たした役割には賛否があり未だ評価が定まってはいないものの、当時の琉球ガラス職人たちで直接・間接的に彼から影響を受けた人が少なくありません。
琉球ガラス史のポイントK
●名工の時代――1990
熟練の琉球ガラス職人の中には、美術工芸品ジャンルの作家としての側面を持つようになって、数年という短い期間でしっかりとした作風を確立した人々もいました。
1990年、琉球ガラス村の工場長であった大城孝栄氏が、初の「現代の名工」(労働大臣表彰)に認定されます。これを皮切りに、1994年に虹工房の稲嶺盛吉氏が、2001年には奥原硝子製造所の桃原正男氏が「現代の名工」に認定されました。
2014年には、4人目の「現代の名工」に煌工房の池宮城喜郎氏が認定されました。
琉球ガラス分野の「現代の名工」は、一般製品と美術工芸品とを製作する高いレベルの一流職人で、いわばスター的存在ですが、他にも「現代の名工」に引けをとらない一流職人が何名も存在します。
作家としての職人が個人名でも活躍する時代に入ったといえるでしょ
う。
琉球ガラス史のポイントL
●海外生産と産地問題――1995
1995年、琉球ガラス村グループの傘下に「ベトナム琉球文化工芸村」がベトナム国ハノイ市に設立され、翌年、操業が開始されました。製品の単価を下げると同時に供給の増量を図るための、海外生産という挑戦でした。琉球ガラス職人が窯作りから技術指導や職人育成、製品チェックまでを取り仕切ることで、沖縄産と同じ製品の生産を実現しました。いわゆる「ベトナム製
琉球ガラス」とはこのことです。
しかしこの海外生産という戦略が、やがて琉球ガラス業界に「産地・定義問題」を引き起こすことになりました。
2007年、琉球ガラス村グループ3社が製品の産地を曖昧にして販売を行ったとして、公正取引委員会から排除命令を受けます。これに続き2008年、琉球ガラス生産・販売協同組合の7社が琉球ガラス村を相手取り、琉球ガラスの名称の使用停止と損害賠償を求めて民事裁判を起こしました。いわゆる「琉球ガラス訴訟」です。双方引くに引けない状況が続き、琉球ガラス業界を二分三分したこの裁判は2014年まで続きました。
判決の主旨は、ベトナム製でも琉球ガラス職人が指導して製造いれば「琉球ガラス」と称してよいが、産地表示を徹底するようにというものでした。
このように産地問題は一筋縄ではいかない問題で、「琉球ガラスって何?」という簡単な問いかけを難問にしてしまう一因になっています。
琉球ガラス史のポイントM
●泡盛とのコラボレーション――1990年代後半
泡盛は古来飲まれてきた沖縄のお酒として定着していますが、一般的に若者層にまで広まったのは1990年代後半に入ってからだそうです。
味の改良はもちろんありましたが、琉球ガラスボトル入りの泡盛の販売が進み、居酒屋で琉球ガラスのグラスが盛んに使用されるようになったのもこの頃であることから、泡盛の流行には琉球ガラスの爽やかなイメージが関係している、という意見もあります。
琉球ガラス史のポイントN
●沖縄サミット――2000
首脳会議の開催で沖縄は世界の注目を集めましたが、琉球ガラスもそのイメージづくりに貢献しました。たとえば、沖縄サミットの各国首脳が集う晩餐会で琉球ガラスのデカンタが使用されたり、沖縄サミット記念品と銘打たれた琉球ガラスボトルの酒類が販売されるなどです。
琉球ガラス史のポイントO
●刻印の広がり――2000頃
2000年頃から、工房や職人の印が製品に押されることが流行し始めました。これは、工房のブランド化や作家としての職人の評価向上を反映していると捉えることができます。
(※すべての製品に押印があるわけではなく、また、あえて押印をしない職人や工房も多くあります)
琉球ガラス史のポイントP
●価値観と製品の百花繚乱――2015頃
最近もニュースがたくさんあります。いわゆる「琉球ガラス訴訟」に終止符が打たれ、琉球ガラス職人同士の交流会が本格化してきたこと、琉球ガラス村はヴェネチアングラス作家と共同作品を制作、煌工房の池宮城善郎氏が4人目の「現代の名工」に選出されたこと、廃瓶供給元のひとつだった沖縄バヤリースの営業終了などなど。
琉球ガラスの工房数は個人作家を中心に増え続け、(正確な数字は出ていませんが)2015年現在で30ほどあるといわれています。「沖展」などでは新しい世代の作品がひときわ眩しい輝きを見せています。
世界や日本のガラス工芸における潮流と同じく、昨今は職人の個性を突出させた作家作品の発展が目立ち、志向性は拡散しています。沖縄の外からデザイナーを登用して新しい風を入れた製品を生み出すこともなされています。価値観も製品も、まさに百花繚乱の様相を呈している所以です。
しかしまた同時に、琉球ガラスとは何かを問い直し、沖縄県内で製造関係者間の交流を深めて切磋琢磨しあい、人々に求められる沖縄らしい製品こそをと思案し追求し続けるような、求心的な姿勢も強まっています。
以上が、ざっと要点を絞って見てきた琉球ガラスの歴史です。いかがでしたか?
本当はもっと細かなポイントもたくさんあって、意外と深い琉球ガラスの世界。沖縄社会の歴史の流れに翻弄されつつも、ニーズを捉え応え続けることで発展してきた琉球ガラスほど、戦後の沖縄文化を見事に反映している工芸品は他にないと思います。
伝統的な手法やスタイルを大切にしながら、同時に新しい高みを模索していくなかで、琉球ガラスが今後どのような展開をみせ、人々の生活を彩る作品が生み出されていくのか楽しみです。