琉球ガラス秘話*もくじ
コラム@
沖縄で最初のガラス生産はいつ?

コラムA
琉球ガラスの原料は廃瓶?

コラムB
「琉球ガラス」という名称はいつ、
どのようにできたの?

コラムC
ヒビ模様や気泡は、琉球ガラス独特
の特徴なの?

コラムD
世間では「琉球ガラス」への理解が
ほとんど進んでいない?

秘密ではないけれどほとんど知られていない ちょっとディープな琉球ガラス・エッセイです。
コラム@
〈沖縄で最初のガラス生産はいつ?〉


「ガラス製品の製造は明治時代中期には始まっていたとされる」

これはウィキペディア(2015年8月現在)に書かれた一文で、『沖縄県立博物館紀要 第15号』の「琉球ガラス工芸の文化」(高良松一、 1989)からの引用です。
これまで多くの出版物の中で、上記のように沖縄のガラス生産が「明治中期ころ始まった」と書かれてきました。

しかし正確には、沖縄における近代ガラス工場の設立は明治末期のことです。
1909年(明治42年)もしくは1910年、日本本土からきた寄留商人の玉井商店店主が、那覇市内に「沖縄硝子製造所」を設立しました。親会社の商店名から別名「玉井硝子工場」とも呼ばれていたようです。

ガラス職人はみな本土出身者で、作られる製品も本土と同じ生活用品、たとえばランプのホヤ・蠅取り器・薬瓶・菓子瓶などでした。
この沖縄硝子製造所は、大正時代末の廃業まで続きました。
沖縄では第二次大戦までに計4社のガラス工場が設立され、競合し盛衰を繰り返しました。ただひとつ残ったのは「前田硝子工場」でしたが、1944年10月10日の米軍による那覇大空襲で焼失してしまいました。

しかし戦後の1949年、前田硝子工場は「沖縄ガラス工業所」として再起し、さらに1951年に「奥原硝子製造所」と社名変更し、琉球ガラスの技術的な母体となる存在となります。
その後、奥原硝子製造所から職人が独立してできた「牧港硝子工場」においてアメリカナイズされたデザインが生まれ、琉球ガラスの方向性が決定的になります。牧港硝子工場は1980年頃に廃業しましたが、奥原硝子製造所は那覇市与儀から国際通り沿いへと場所を移し、今も脈々とガラス作りが続けられています。
ここでは、基本的な疑問にできるだけ答えてみたいと思います。
これほど有名なのに、不明点や誤解が多すぎる「琉球ガラス」。