コラムA
〈琉球ガラスの原料は廃瓶?〉
「太平洋戦争後の資源難のため、アメリカ軍基地で捨てられたコーラやビールの空き瓶を溶かして再生したことから始まる品である。」
この一文は、現時点(2015年8月)で『ウィキペディア』の「琉球ガラス」の項に書かれている文章からの引用です。
新聞や雑誌で琉球ガラスが紹介される際にも頻繁にこうした説明があります。
往時を覚えている熟練職人の中にも、そのような説明に加えて「廃瓶を利用するアイデア」が琉球ガラスの原点、と仰る方がいます。
しかし実のところ、この説明は事実半分です。
たしかに、市民の間で流行した手製のコーラコップが象徴するように、第二次大戦で焼け野原になった沖縄の物資難には凄まじいものがありました。アメリカ統治時代に入り順次復興が進み、那覇市内でガラス工場が再開されたのは、終戦から4年が経過した1949年のことです。
ガラス工場を営むには、原料・燃料・設備・職人・販路が揃って、さらにそれが滞りなく運用される必要があります。つまり、再開された時点で、すでにそれらが準備できる程度の復興は進んでいたと推測できます。
製品の原料は廃瓶ガラスでした。
ただし、明治42年(1909)に初めて近代的なガラス工場が設立された当時から、沖縄県内のガラス製造ではすべて廃瓶を利用してきたのです。県内に原料ガラスを輸入することはコスト面で現実的でなく、また、日本本土や諸外国から入ってくる瓶入りの製品がある程度の量あったためです。
琉球ガラスの成立は1960年頃といわれています。
つまり、ガラス工場が再建されてから十数年の間は、戦前と同じく日本本土製品と同型の生活用品・産業用製品を製造していました。そのほとんどが無色透明でした。
やがてアメリカ軍人やその家族などからオーダーを受けて、舶来物風のデザインを取り入れた製品の生産が始まります。この頃、色のついた廃瓶がそのまま色ガラスの原料として積極的に使われはじめたようです。茶色はビール瓶、薄青色はラムネ瓶、緑色はセブンアップといった具合です。
現在では、色付けに多くの着色剤を使用しますが、当時の着色剤は紫や青など、基本的で単純なものに限定されました。着色剤を用いる際は主に透明なガラスが用いられ、その多くがコカ・コーラボトルでした。コカ・コーラは戦時中からアメリカ軍の公式ドリンクであり、また戦後まもなくして沖縄県内にも製造工場が整備されたため、軍基地などでは膨大な量が消費され、空き瓶もたくさん廃棄されました。
今でもいくつかの琉球ガラス工房で廃瓶を原料にしていますが、ほとんどの工房では、廃瓶ではなく新しい原料ガラスを使用しています。1980年代前半頃に、多くの工房が廃瓶から原料ガラスに転換したようです。
廃瓶ガラスと原料ガラスには、それぞれに長所短所があります。
廃瓶ガラスはガラスにムラができやすく、また不純物や泡が入りやすいという欠点がありますが、それが逆に独特の風合いある質感を作りだし、作品の味となります。原料ガラスよりも速く固まるので、職人は素早く造形しなければならず、それが形状にも反映されます。
原料ガラスを用いたガラス製品は比較的強く、不純物や余計な泡も少ないため質が均等で、色も鮮やかに表現できます。長所ばかりですが、廃瓶ガラス製品のほうが温もりや味わいがある、と感じる人が多いのも事実です。
秘密ではないけれどほとんど知られていない ちょっとディープな琉球ガラス・エッセイです。
ここでは、基本的な疑問にできるだけ答えてみたいと思います。
これほど有名なのに、不明点や誤解が多すぎる「琉球ガラス」。