嗜好: 旅好き、本好き。 人好き、一人好き。
   興味: 自然科学、哲学、文芸、美術分野に惹かれる。
   思想: 生命讃美・懐疑主義・反体制ぎみ。信仰はもたない。
   容姿: ファッション・トレンド・ブランド・プライドに疎くダサい。
   身体: 身長173cm・体重65kg。運動能力は鈍め、スポーツ全般に無知。
   七癖: 記録癖・収集癖・放浪癖・討論癖・健康志向・束縛嫌い・のんびり癖あり。
2002年 墨点字フォント」 と「絵点字フォント」を趣味で開発し公開。
     
(五十音に点字をあてた文章作成ソフト用のフォントとしては国内初。河西白雨 名義)
2011年 「パリ、ルイ・ブライユ紀行」エッセイをWeb上に掲載。
     「デカルトの羽根ペン、木漏れ日のテーブル」サイトを開設。 
2014年 「手植えノートWebsite」開設。
     「デカルトの重箱」ブログを開始。
2015年 琉球ガラス沖縄ガラス瓶についての情報の掲示。
2018年
『琉球ガラスの年代物コレクション 〜沖縄ガラス工芸図鑑〜を出版。
1978年 山梨県生まれ・神奈川県育ち。
2001年 日本大学生物資源科学部卒。
2011年 沖縄県糸満市に移住。 

       
                 
■当ウェブサイトは
私的な趣味&仕事の
情報目次ページです
                 
     
          
           























































































<気ままな経歴>

1978年2月10日(金) 午前10:30頃の雨上がり、山梨県甲府市にあった清水八束病院にて出生。
 血液型はO型。へその緒を首に巻いた癒着痕が、成人する頃までわずかに残っていた。
 母の実家(韮崎市)で1ヶ月、のち神奈川県横浜市戸塚区の社宅アパートで2歳弱までを過ごしたらしい。
 父は真空技術の会社に勤めるサラリーマン(実家は長野県下諏訪町で鋼鉄加工業)、
 母は専業主婦(元幼稚園の先生。実家は山梨県韮崎市で稲作や養蚕業)。

  先祖についての話:
   
祖父の曽祖父に河西準之助というかんざし職人の発明家がおり、古銭を溶かして鳥居を建てたり、紡績機の一種や下駄スケートを発明した。
   言い伝えでは、苗字を最初に貰い受けたのは武田信玄&勝頼父子の部下だった河西但馬守とのこと。
   ただ、寺が2度も焼け家系図が残っていないので詳細は不明である。バックアップの重要性を誰も考えなかったのだろうか。家紋は丸ニ。


1979年 神奈川県綾瀬市の風変わりな一軒家に移る。ここで幼少期と少年期を過ごした。
 田畑や林の多い住宅地で、家のほど近くには新幹線の線路が伸び、高圧鉄塔がそびえ立っていた。
 大工が自宅として建てたというその家には2階建てアパートが付属しており、父は一時期そこで副業に学習塾を経営していた。
 庭には木々や池があり、のちにキウイが庭から伸びて広いベランダに達し、毎年わんさかなって窓から手を伸ばして採れた。
 和洋折衷で無駄な装飾が多く、リビングには飾り暖炉があった。私は3歳の頃、急階段から落ちて尖った御影石の階段角が
 下唇の下の皮膚を貫通、何針か縫う大怪我をした(今も(アスタリスク)マーク形の縫い跡がある)
 弟が誕生。

1982年 地元の杉の子幼稚園に入園。
 生き物好きの子供だった。すでに運動は苦手でぼーっと考えごとにふけることが多かった。
 家族と親戚で長野県へスキーに行った際、リフトが怖くなって途中で降り頭から転落したことがある。目に見える怪我ではなかった
 ため周囲は気にしなかったが、一時的に意識がおかしくなった。いろいろとドジな性格だった。

1983年 父の仕事の都合で、西ドイツに移住。
 曇り空の似合う、北部のヴェストファーレン州メーアブッシュ町に2年住まう。栃(カスターニア)の街路樹が続く住宅地にある
 濃緑色の小ぶりなマンション。階段の床石に含まれているアンモナイトに執着し毎日眺めるのが習慣だった。
 地元のプロテスタント教会付属の幼稚園に通う。恐竜・化石と本が大好きだった(とりたてて読書好きというわけではなかった)。
 日本の食べ物や本は貴重で、ある日、楽しみにしていた納豆を1パック充てがわれず、「日本に帰ったら100個食べるからねっ!」と
 泣きわめいたが、内心(100個は無理だろうな)と思った記憶がある(ちなみに中学時代の13個が最高記録)。
 絵本や図鑑の他に、遅れて送られてくる子供向け雑誌や父の科学雑誌「ニュートン」を毎回楽しく眺めた(創刊0号から200号まで実家にある)

1984年 地元のブロントシューレ(小学校)に通う。登校時はよく霧が出て、冬は極寒であった。室内の温かみが印象的だった。

                   

 ぼんやりした子どもで何事においてもトロかったが、先生は「Daichi ist Daichi(ダイチはダイチよ)」と言ってとても寛容だった。
 休日には時々、家族で車に乗って欧州各地を旅行した。デンマークには父の旧い友人がいて何度か遊びに行った。
 近辺に住むいくつかの日本人家族とたまに交流があったし、ドイツ人の友人ももちろんいたが、だいたいは弟と二人で遊ぶことが多かった。
 ライン川河畔で父から自転車の乗り方を教わった。
 ドイツ語を習得していなかったことで、子供心に次第に学校生活がキツくなってきていた。

1985年 帰国。 帰途、シンガポールに立ち寄る。
 元の神奈川県綾瀬市の家に戻る。
 父は脱サラして、ドイツのキッチン用品を主に扱う輸入卸業を始めた。

 小学2年の夏から、地元の綾瀬市立 落合小学校に通う。放課後に毎日居残りで、先生に漢字を教えてもらった。
 マッシュルームカットの髪型のせいかドイツ帰りが目立ったのか、おっとり系頑固者の性格のためか口が軽いせいか、よく苛められた。
 体力がなく、カナヅチだった。体に悪い所は特にないが胃腸の弱い少年で、給食後にはしょっちゅう腹痛になり保健室のお世話になった。
 動物好きで、色々な生き物を飼った(金魚・鯉・フナ・ミドリガメ・ハムスター・コザクラインコ・ウズラ・ニワトリ・セキセイインコ・蚕など)
 犬猫は飼う機会がなかった。大人になるまで猫アレルギーがあった。

 子供時分の将来の夢は、有名な医者か科学者になることだったが、学校の先生に「有名な」というところを注意され考えこんだ。
 習い事はバイオリン(幼〜小5)、習字(小5〜中3)、ピアノ(小5〜高2)、絵(小6)、英会話(小6〜中1)、
 いずれもモノにならなかったが、人生に影響は与えたと思う(バイオリンは二十歳くらいまでトラウマになっていた。音を聴くのも辛かった)
 通い事は手話サークル(小4〜小6)、カブスカウト(小5)、日本宇宙少年団(小6〜中3)。小学4年の時にクラブ活動の卓球にハマった。
 岩手・福島県へ家族旅行。
 世代としては少年ジャンプ黄金期(ファミコン世代)だがジャンプやファミコンはそこそこで、小5のとき手塚漫画(火の鳥/BJ)に熱中した。
 11才から日記をつけ始める(山梨の祖父を真似て。祖父は当用日記を結局16年続けた)。私の日記は次第に雑なメモ程度になりつつも38歳まで続いた。
 この頃の心境を振り返ると、帰属性についての強い孤独感をもっており(帰国子女としてなのか環境や性格のせいか)、それをどう処理するか、
 また生の不安をいかに生命讃美に変えるのか、そんなことをよく考える思索少年だった。市立図書館の雰囲気が好きだった。
 佐渡ヶ島へ家族旅行。

 小6のときクラスメイトと仲違いをこじらせ、またよく苛めらるようになった。なぜかランドセルはドイツ製のものを使い続けていて
 意味もなく目立ち、帰宅するとたまに上履きの跡が付いていた。個人主義が根本にある性格のため仲間はずれは苦でなかったのだが、
 いつも素晴らしい友人が周囲にけっこういてその面では恵まれていた。
 修学旅行は静岡県浜松。
 友人3人と近所の神社まで行き来する早朝散歩をしばらく続ける(長野の祖父の習慣を真似て)

1990年 綾瀬市立春日台中学校入学。
 多感で、淡いノスタルジーに浸りながらの中学時代を送る。
 人気のない自然科学部に所属し、釣り・登山や天球儀・カメラ作りをかじった。仲の良い担当教師とよく口論になり、8度退部し9度入部
 し直した。登山では薄手の赤ジャージ・スニーカー姿で奥穂高岳に登頂、無謀な部活動だった。
 中1の夏、禅に憧れて母の親友のお寺に頼み、山梨県の身延山山頂で住み込みの手伝いをした。禅宗でなく日蓮宗だったと後で気がついた。
 中1の終わりに、多くの人が通う長後のステップ学習塾に入り勉強を始めた。以降、自分にテレビゲームを禁じる。

 中2は、もっとも夢見心地に過ごした思春期だった。
 夏、日本宇宙少年団(YAC)の研修旅行でワシントンDCとスミソニアン博物館、ナイアガラの滝、トロントなどを観てまわる。
 中3では塾のおかげで受験勉強が楽しかった。体育だけが苦手のままだった。
 修学旅行は奈良京都。


 ◯ 少年期を振り返ると:
  西ドイツに幼い頃に住まったことは、私の意識の底に西洋風の何かを植え付けた。石造りの建築物や油彩画が醸しだす暗闇の
  ようなものが心の底に染み付いた気がする。それはたとえば、母の山梨の故郷が美しい山河と田畑のある丘陵に囲まれた田舎で、
  父の長野の故郷が香り漂う湖畔の古い温泉町で、これらが私にとっての日本という国の原風景になっているのと同様である。
  少年期・青年期を過ごした神奈川県県央は、おしなべて中途半端な田畑と核家族向けの住宅地で構成されているやや面白みに欠ける
  環境で、それほど愛着も執着もないが、当然ながらわが故郷は私の中に基本的な生活様式を刻印した。
  習い事が他の子よりも多くしかも大半を挫折で終えたことや、金持ちでもないのにお坊っちゃん風に育てられたことは良し悪し
  であった。成人してすることなすこと中途半端になり期限も守れないのは、幼少期の過ごし方に起源が辿れるかもしれない。
  他方、不器用なりに自力で考えながら歩んできたことは、じぶんの頭で勝負しようとする心構えと態度を培う訓練になった。
  小学2年と6年時に適度に苛められた経験は、悔しさをバネにするほどのエネルギーを培ってくれたわけではなかったが、嫌われ
  ることに耐える粘り気とか、頑固と柔軟との落とし所を見つけるしたたかさを身につけるのに役立った。とても良かったと思う。
  少年期にこそピュアな真実を掴みつつあった。年を重ねると感性が摩耗し心のメガネが汚れてくるのは、戒めるべきことだ。



1993年 県立海老名高校入学。
 学区外の高校に入る。学力の低迷に喘ぎつづけ、青春に苦悩し眼高手低が辛く、まぁ色々とほろ苦く切ない高校生活を送った。
 昔からの念願だった図書委員会に特別枠で入る(高1〜高2)。 
 高1の時、父の仕事の用事にくっついてドイツとアイスランドを旅行。
 一家で海老名市に引っ越す。田園風景と住宅街が区画ごとに広がる街で、駅前だけが急にごちゃごちゃと開けていった。
 高2の時、友人と町田市の東進ハイスクール予備校に通う(〜高3)。文章力に関してはこの頃に強化されていったと自覚している。
 高3は特に鬱々して過ごし、青春の苦悩や思索をよく友人とミスドなどで語らいあった。嫌いな化学のテストを白紙で出し赤点をとる。
 修学旅行は美しき北海道。

1996年 大学入試に落ち、自宅で浪人生活を送る。
 なぜか浴衣姿ですごし、悶々としながら、密かに科学や文学に憧れていた。内心の躁鬱の起伏が極めて激しく、なかばそれを楽しんでもいた。
 予備校には通わず通信教材を用いていたが、勉強ははかどらなかった。友人らが頻繁に予備校の模擬テストのチラシを持ってきてくれた。

1997年 日本大学 生物資源科学部(生物環境工学科)入学。 
 長い学科名だが、内実は農学部・農業土木科。水田や建物の構築、測量、自然環境問題などを学習する。
 藤沢市湘南台にある緑豊かなキャンパスで、心身とも自由を満喫して怠惰とアカデミックな雰囲気に酔いしれて過ごした。
 青春に悩みつつも、ある種とても幸福な4年間であった。

 入学してすぐに卓球クラブに入部したが、運動部を仕切る体育連盟のヤクザ風の横暴に反感を持ち、ひと月で辞めた。
 1年時、やる気充分で講義を月曜から土曜までの時限を朝から夕方までフルに取り、必要単位の大半を修めた。先生や友人とよく談話した。
 とくに哲学の三浦義雄講師には影響を受け、多い時には週3回、卒業後も月1でドトールや飲み屋で語らった。よく議論をし、様々なことを
 教わり、まま大喧嘩もした。先生は、自然環境と人間社会との軋轢について思想史や技術史から見つめ直し、『滅びのアテナ』という厚い本
 にまとめた。私に「デカルトを読んでごらん」と教授してくれたのもこの先生だった。
 夏、沖縄を旅する(中学時代の友人と行き、途中から一人旅。高3の時にも家族で沖縄ツアー)。沖縄は魂を強烈に惹きつけた。
 長野県の軽井沢にも2度旅行。
                   

 2年次からはほとんど授業を取らず青春を楽しみ、読書・映画鑑賞・博物館めぐりなど、気ままな方向に努力していた。
 山や川へ化石採集に行ったり、あちこち寺を巡って御朱印を集めもしたが、十年続くような趣味にはならなかった。
 3年次、ゼミの仲間と秋田・北海道を旅行。 また神奈川県内の相模湾湾岸を断続的に歩き通す「海岸ウォーク」を企画し、やはり
 クラスの友人数名で敢行、この徒歩小旅行は全7回に及んだ。暇でロマンを追いかけていたのだろう。
 4年次、皆が就職活動に励む頃、我流の卒業論文「水田形態の相違による生態系の比較」に打ち込んでいた。担当のゼミ講師は無能かつ
 極めて陰険でキレ易く表裏があり、面白いほど苦しめられた。他ゼミの先生方に随分助けてもらった。
 必修科目(熱力学)が苦手で最終テストを蹴った(江ノ島で天ぷらを食べていた)ため卒業が危ぶまれた。卒業アルバムの制作には凝った。

2001年 大学卒業。就職活動に興味がなかったのでエスカレーター式に無職になる(就活をしなかったのはクラスで私だけだった)
 野鳥観察のアルバイトまがいのことと道路警備員のアルバイトをしたがやがて辞め、家やカフェで本を読みぶらぶらしていた。
 時折、父の輸入業の手伝いをした。
 夏、私の生活に母が激怒。売り言葉に買い言葉で黄色いママチャリにまたがって家を出ると、そのまま当時の恋人がいた北海道まで
 行って帰ってくる関東・北海道・東北・甲信越1ヶ月間の旅となってしまった。インドア派なのにテントや寝袋を途中で買い込んで、
 野宿しつつの旅の日々だった(その後も札幌は何度か訪れた)

2002年 夏、思いついて「点字フォント」を制作。情熱を注いで一気に完成に至ると、ひと夏が終わっていた。初めてウェブサイトを作り公開。

2003年 近くの座間市立野台にアパートを借りたが、料理が不得意で腹が減るのでほとんど毎日実家におり、一人暮らしを失敗。
 父の仕事を多少手伝う。主に、イタリア製のペレットストーブの展示会など。横浜や岩手や長野に出向いた。

2004年 隣町の大きな図書館で司書手伝いのアルバイト(4月〜12月)。職場にいるほとんどが女性で、時には仕事がうっとりするほど楽しく、
 時にはゴキブリのように嫌われて苦痛もあったが、いずれにせよ本に囲まれて過ごす時間は至福そのものだった。
 高校時代の友人と2人で「鳥と化石魚」ウェブサイトを開設(〜2008)。簡単なGIFアニメーション、歌、エッセイ、イラストなどを作って
 自己満足の表現方法を模索する。友人とよく海老名の街をぶらぶら散歩した。
 実家の向かいに千葉正士さんという東京都立大名誉教授(スポーツ法学)が住んでいた。高齢で体が悪いのでと呼ばれ、本の整理を時々手伝い、
 小遣いをいただく。作業の後にはいつもご夫婦で人生についてのアドバイスをくれた。

2005年 1月〜11月、アジアひとり旅。
 頭を丸め、75Lのバックパックを背負い、父母弟に海老名駅で見送られて電車で横浜、深夜バスで大阪、船で2日かけて上海に渡る。
 その後中国・ベトナム・カンボジア・タイ・マレーシア・インドネシア・ミャンマー・ラオスを旅した。コーヒーと読書に幸福を感じ、
 旅の出逢いの妙はまるで魔法がかった世界にいるようだった。人生の不思議と自由の喜びとを最高度に味わった気がする。
 インドネシアでは、出会った長崎大医学部の学生らと一緒にニアス島に渡り、津波被災地のボランティアに参加。
 先述の三浦哲学講師が孤独死してしまっていた知らせを受け、気落ちしてラオスから帰国の途に就いた。奇妙なロングヘアーの風貌で帰宅。
 今まで自分はフリーターだと思っていたが、帰国するとニートという新しい言葉ができていてそう呼ばれた。

                      
2006年 3月〜6月、ふたたびアジアへ。
 タイ・カンボジア・コルカタ(インド)を旅する。父が心筋梗塞で入院した知らせを受け帰国(最新医療技術のお陰で父は助かった)
 結局、世界一周は全然実現しなかった。
 6月〜12月、北海道道東の屈斜路湖の近くにあるユースゲストハウスでボラバイト(翌年1〜2月にも)。北海道はとにかく美しい。

2007年 茨城県水戸市に移る。水戸はすっきりしたフラットな都市で、田畑も多く、どこか昔ながらの質感が残っている街だ。
 ゼンリン住宅地図の調査員アルバイト。風雨と日差しがキツいながらも茨城県を歩き回り、職場の仲間と戯れて楽しかった。

2008年 神奈川県海老名市の元実家のあった家(父母は伊勢原市に引っ越した)にて暮らす。厚木市の工場でパソコン修理バイト(2ヶ月)
 フィリピン旅行。伊豆にも旅行。
 弟が(自動車エンジン開発の会社を辞め、やはりアジアを旅した後に)父の仕事(貿易業)を継いだ。
 楽しい中学校同窓会があった。先生から「みんな成長してるのに、なんでお前だけそのまんまなの?」と笑われた。(どういう意味?)


 ◯ 青年期を振り返ると:
  たくさんの善き友人・素晴らしい教師と出会った。文章を中学・高校の教師らに随分と褒められた経験は、貴重な自信になった。
  トロさとお喋り好きは三つ子の魂である。が、性格は幼・小・中では極度に真面目だったのが、高・浪・大といくについれてチャラン
  ポランに解放されていった。要はその現れ方である。マイペースもナチュラルハイも生来の性格だと思う。
  たしかにたしかに、10代後半から20代というのは素晴らしい青春時代だった。その時々には実に悩み多く、技術も精神もすべてにおいて
  発達途上でどうにもなりそうになかったが、若さが可能性の資源であることは今更になって痛いほど分かる。
  続く30代は、世間で皆が言うように、まさしくあっという間に過ぎていった。一体何をしていたのだろうか? とさえ思うが、結婚や子育て
  といった人生の最重要イベントがそういえばあったのだ。時には働き、時々引っ越したりと、生活苦にあえぎながらも何とかやってきた。



2009年 結婚。妻はビーズアクセサリーデザイナー。いわゆるニートの花婿に、結婚式(大磯プリンスホテル)では皆が気を使ってくれて優しかった。
 夏、北海道(美瑛・弟子屈・礼文島)を旅行。 
 座間市の起伏と緑の多い住宅街にあるウィークリーマンションに3ヶ月間住む。秋、京都を旅行。
 この頃何度か、東京(阿佐ヶ谷)で開催された文字と印刷に関する市民学術イベント「もじもじカフェ」に参加、楽しかった。

2010年 4月、フランス(パリ)1ヶ月間の旅行。らせん階段でホテル6階に上り下りする生活は鍛えられる。

                  

 10月、宮城県へバス旅行。
 12月、長男誕生。 
 神奈川県川上郡中井町のマンションに越し、畑の区画を借りてのどかに暮らす。森に囲まれた気持ちのよい田舎。
 本を書いていたがどれもこれも完成せず、生活に苦悩し、体調を崩す(過換気症候群やパニック障害)。パソコンのやり過ぎやコーヒーの
 飲み過ぎ(10〜15杯/1日)が原因だったことが次第に分かった。なお、私は煙草は吸わず酒もほとんど飲まない。

2011年 3月、東日本大震災発生時は大磯の海岸道路を家族で藤沢方面に向かっているところだった。藤沢でたまたま境川を遡る津波を見た。
 渋滞と停電の町を夜までかかって帰宅し、テレビで惨状をみて唖然とした。放射能について友人知人と情報共有し対策する非日常の数週間
 を過ごす。東京で行われた3つの反原発デモに参加。やがて、近所に放射能のホットスポットが見つかったことがわかる。
 4月、家族で小さな車に乗って九州までの旅に出た。避難と移住先検討をかねた突拍子もないこの家族旅行は40日間に及び、馴染みの
 薄かった西日本を味わう有意味なものとなった。主な滞在地は名古屋・伊勢・大阪・岡山・広島・山口・長崎・熊本・島根・大阪。

 6月中旬、沖縄県糸満市に移住。妻がインターネットでさくっと契約した、さとうきび畑に囲まれた集落にあるアパートへ。
 6月23日(沖縄の慰霊の日)、思いたって平和祈念公園の式典に出向き、菅直人首相に脱原発を求める手紙を投げ渡すと、警察に連行・
 事情聴取され、翌朝の琉球新報と沖縄タイムスに小さく記事が載った。警察は親切で、来沖のよい記念になった。
 南国の海と自然と文化……沖縄は憧れの場所でもあったので、数ヶ月間は気持ちがふわふわと夢見心地のままだった。

2012年 すっかり沖縄での生活に慣れきって、ソーキそばも連食しなくなり、観光することも美しい海を眺めることも少なくなった。
 沖縄での生活は温湿度と野菜・魚が自分に合わない。とはいえ、何に関してもギスギスしない所がとても好きだ。(関東はギスギスすぎだ!)
 琉球ガラス村に短時間パートとして勤務。チラシ作りやサンドブラスト加工など雑多な仕事を担当。仕事と趣味とを混同しながら、
 琉球ガラスの歴史や現状や作品を調べたり、収集をはじめる。図書にまとめることを前提に方方の工房を取材して回る。
 矢ヶ崎克馬先生(琉球大学名誉教授)ら率いる、被災地がれき受け入れ問題についての会合の講演を聞く。この先生は素晴らしい。

2013年 個人的にひどい1年だった。胎児を亡くした。琉球ガラスの研究と収集は進んだが、本の執筆は中断。

2014年 5月、台湾旅行(両親と家族とで)
 琉球ガラス村で受けたインタヴューが短い記事として琉球新報(5月15日付)に載る(しかしこの年の琉球ガラス史研究は滞った)
 当ウェブサイト「河西大地の手植えノートWebsite」開設はじめて実名を表に出して、多少自分で気恥ずかしい。
 17世紀フランス人哲学者デカルトについての情報のあれこれを批判的に取り上げる「デカルトの重箱」ブログを開始。
 12月7日、初出場したNAHAマラソンを6時間10分かけて完走。嬉しかった。翌日は全身極度の筋肉痛で寝込んだ。

2015年 5月、琉球ガラス村(パート)を退職。以降、研究・執筆と育児・趣味・諸々のアルバイト。
 6月、香港に短期滞在(妻の仕事にて)
 8月、この「手植えノートWebsite」内に、「琉球ガラス〈資料編〉website」と「沖縄のガラス瓶〈資料編〉website」を加え公開。

 東京の町田市立博物館「沖縄の工芸 ―琉球ガラス・陶磁器・染織・琉球漆器―」展(9/8〜10/18開催。2016.4/16〜6/19愛知県陶磁美術館へ
 巡回)に、琉球ガラス数点を貸出。
 神戸芸術工科大学の佐野浩三教授に琉球ガラス史の基礎資料を提供。佐野教授はデザイン学(建築)がご専門で、神戸洋家具産業の歴史
 を中心に「自生的スポンテニアスデザインの事例収集及び発生要因と構造特性による類型化の研究」を進め、琉球ガラスの事例も研究素
 材のひとつとして考察された。

 11月、二男誕生。
 12月、ポプラ社のコミック版・世界の伝記 『ルイ・ブライユ』(迎夏生・漫画、金子昭・監修)に巻末資料写真を提供。ブライユは点字発明者。

2016年 冬・春、育児に非常に苦悩しながら生活と研究・趣味・雑事に雑然とした日々を送った。
 収集した琉球ガラスは1000点を超え、蔵書も古書など(デカルト・哲学・ガラス工芸・美術)も10000冊を超え、狭いアパートが尋常でない状況
 になる。けれど、こうした物品が大切なのは、他にさらに大切なものがあるからだという真理は押さえておきたい。
 茨城・神奈川に年1回のペースで帰省する。その際ついでに神保町(東京)に宿をとり、古書街巡りをするのが楽しみとなっていた。
 夏・秋、やっと育児・生活・研究の調子がとれはじめる。10月、九州(福岡・宮崎・鹿児島・大分)を旅行

                  

2017年 運動不足で風邪ばかりひき、顔のシミ・シワが増えるなどの老化現象が目立つようになる。
 近所の子供たちともよく遊ぶ。子供は人類の宝だが、しょっちゅうイライラし子らを叱る。とても良寛様にはなれない。
 5月、近所の悪童をかまってギックリ腰を初めて患う(1ヶ月で治った)。6月、短期帰省し10年ぶりの中学校同窓会に出席。
 7月、近所の小5少年らの誘いでLINEを遅ればせながら開始。旧交を温めるのは時間の浪費ながら楽しい。
 夏〜秋、週7日間ひっきりなしに近所の子供たちが大勢この狭アパートに押し寄せてきて、ぎゅうぎゅうの溜まり場状態となっていた。
 収集した琉球ガラスは2000点を超えた。

2018年 1月、自著の発行所として「白雨草木庵」の屋号を掲げる(9月公開)。ISBN(国際標準図書番号)出版者番号は909582。
 2月、40歳になった。不惑? とんでもない! 苦悩続きの日々、打開策を模索していた。
 源ノ明朝フォント(Google・Adobeの共同開発オープンソース、2017年)のひらがな領域を改変して派生フォントを制作。細部まで気に入るひらが
 な書体がなかったからだ。オリジナル書体でモノを書くのは気分がいい。
 9月、携帯電話をPHSから世間並みのiPhoneに。道具が変わると少し生活スタイルが変わるが、メインの使用道具はパソコンとノート。

 11月、
『琉球ガラスの年代物コレクション 〜沖縄ガラス工芸図鑑〜を出版。
 延期に延期を重ねさらに著作内容を変更しまたさらに自分で決めた〆切を何十回も破り、やっと初めて本を世に出した。方々に感謝。
 本を作るのはとんでもなく面倒な作業群で心身ともヘトヘトになった。構想から6年半の紆余曲折を経て、本来作るべき内容からのスピン
 アウトを上梓したので不満はあるし不義理も山積したままで心苦しくもあるが、何にせよ史上初めての琉球ガラス解説本を世に出せたのは嬉しく、
 琉球ガラス業界や沖縄に多少は御恩返しができたと思うとほっとする。ばんばん売れるような本ではないから、これから手売りなどで稼がねば…
 本書を皮切りに、挑戦的な良書を作っていきたい。

 12月11日付、琉球新報の記事で拙著を紹介して頂いた。反響で行く先々声をかけられ、近所の子らに写真写りの素振りを真似された。
 12月中旬、琉球ガラス村の入口歴史展示ブース(リニューアルオープン)に、歴史考証と現物展示品貸出(十数点)の面で協力する。
 12月、電子キーボードを中古で購入、20年以上ぶりにピアノ曲にタッチ。クラシックでなく、よく車で聴いている西村由紀江の曲ばかりを。

2019年 1月6日付、琉球新報の日曜読書欄「晴読雨読」に記事を書く。私が紹介した本は『点字発明者の生涯』(1984)。新聞紙面の本文中に
 墨点字表記を載せるのは規格外で困難らしかったが、ブライユ生誕210周年の年の命日にそれが実現できて心底嬉しかった。そしてこの記事は、
 私にとって人生で初めて原稿料を頂いて書いた文章でもある。編集A.C.さんに感謝。
 1月29日付、FM沖縄の朝の番組「Fine!」にゲスト出演。松田礼那さんからインタビューを受ける「ファイナー」という7分ほどのコーナーで、
 琉球ガラスについて話をさせて頂く。ラジオの収録は初めての経験で楽しかった。音源編集の巧みさとパーソナリティの話の上手さに感動した。
 2月14日付、コミュニティ放送局ぎのわんシティFMの夜の番組「幻の焼鳥BAND・コックピットへようこそ!」にゲスト出演。1時間という長い
 枠があっという間に感じる、琉球ガラスや拙著にまつわるトークを楽しく収録。収録風景の動画で初のYoutube登場。動画は気恥ずかしいもので、
 普段からいかに自身の挙動を客観的に見られていないか思い知った。パーソナリティはさすが上手い。

 3月11日、東日本大震災から8年。宜野湾市にある東本願寺沖縄別院の屋上へ“わすれなの鐘”をつきに。
 4月7日付の神奈川新聞・日曜読書欄に「かながわの本」として拙著が紹介されたのは、私が神奈川出身で発行所も神奈川に置いてあるから。文
 章は鉄道関連の記事や活動で著名な斉藤大起さんの手によるもので、製品文化の保存活動をも行なう記者ならではの評論にグッときた。
 4月、学習塾に講師として3週間勤める(そののち不定期の事務作業に軸足を移す予定)。
 生活&育児・読書&執筆の調和がとれず四苦八苦。
 5月、長女誕生。
 6月付、FM沖縄の夜の番組「オリオンびあぶれいく」にゲスト出演。山田真理子さんがインタビュアーの木曜「知っているようで知らない沖縄」の
 コーナー(7分×4回)で琉球ガラスの話をさせて頂く。ディレクターMさんにも感謝。





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  時系列で細かな情報を記してみたが、一個の人間の半生がどれほど伝達できたかというと心もとない。
  情報は選択的だし、細部のエピソードも感性的なニュアンスも、多くが零れ落ちている。
  足跡には、当然ながら、現在の私にまで残存しているものと、影響の消えてしまったものとがある。
  そういうわけで、以上、さほど有意味でもない主観による〈気ままな経歴〉でした。


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