嗜好: 人好きの一人好き。自然、本、美しいものに惹かれる(単純)
   興味: 自然科学、哲学、文芸、美術分野のファン。文字にも関心が強い。
   思想: 生命讃美・懐疑主義・反体制ぎみ。信仰は未だもたない。
   容姿: ファッションや服装に疎く、基本ダサい。顔に老人性のシミ多し。
   身体: 身長173cm・体重67kg。血液O型。身体は硬め。スポーツ全般に無知。
   七癖: 記録癖・収集癖・討論癖・工夫好き・束縛嫌い・本質指向・健康志向。
2002年 「墨点字フォント」 と「絵点字フォント」を趣味で開発、ウェブサイトを作り配布
 2011年 「パリ、ルイ・ブライユ紀行」エッセイを掲示
       「デカルトの羽根ペン、木漏れ日のテーブル」サイトを開設
  2014年 各種サイトを「手植えノートWebsite」に統合。「デカルトの重箱」ブログ開始
   2015年 琉球ガラスの情報を掲示
    2018年 
『琉球ガラスの年代物コレクション 〜沖縄ガラス工芸図鑑〜を出版
     2020年 「絵点字で!」YouTubeチャンネルを開設
       2022年 「【公開提案書】 日本の点字の改革案」を掲示
        2023年 「イメージでおぼえる! 日本十進分類法」を公開 
1978年 山梨県生まれ・神奈川県育ち。
2001年 日本大学生物資源科学部卒。
2011年 沖縄県糸満市に移住。 

       
                 
■当ウェブサイトは
私的な趣味&仕事の
情報目次ページです
                 
     
           






















 【気ままな経歴】

 以下、細かなことも綴った私の人生録です。
 ご興味がおありでしたら、どうぞお読みください。

 
 
 1978年 2月10日(金) 午前10:30頃の雨上がり、山梨県甲府市にあった清水八束病院にて出生。
 血液型はO型。へその緒を首に巻いた癒着痕が、成人する頃までわずかに残っていた。
 母の実家(韮崎市)で1ヶ月、のち神奈川県横浜市戸塚区の社宅アパートで2歳弱までを過ごしたらしい。
 父は真空技術の会社に勤めるサラリーマン(実家は長野県下諏訪町で鋼鉄加工業)、母は専業主婦(実家は山梨県韮崎市で米作や養蚕業)

  MEMO 先祖についての話

 
 1979年  神奈川県綾瀬市の風変わりな一軒家に移る。
 家は田畑や林の多いのどかな住宅地にあったが、ときどき夜中でも米軍の戦闘機が厚木基地からきて轟音を立てて上空を飛んでいる地域だった。家の近所には新幹線の線路が通り、高圧鉄塔がそびえ立っていた。ここで幼少期と少年期を過ごした。
 大工が自宅として建てたというそのどっかりとした家には、外側に2階建てアパートが接続していた。アパートに人は住んでいなかったが、父は一時期そこで副業に学習塾を経営していた。箱型の庭もそこそこ広くて木々や池があり、のちにキウイが庭から2階まで伸びて無駄に広いベランダにも毎年たわわになった。手を伸ばせば子供部屋の窓からも採れた。
 和洋折衷で無駄な装飾が多く、リビングには飾り暖炉があった。私は3歳の頃、急階段から落ちて尖った御影石の階段角が下唇の下の皮膚を貫通、何針か縫う大怪我をした(今も(アスタリスク)マーク形の縫い跡がある)
 11月、弟が誕生。

 
1982年  地元の杉の子幼稚園に入園。
 生き物好きの子供だった。すでに運動は苦手でぼーっと考えごとにふけることが多かった。
 家族と親戚で長野県へスキーに行った際、リフトが怖くなって途中で降り頭から転落したことがある。目に見える怪我ではなかったため周囲は気にしなかったが、一時的に意識がおかしくなった。いろいろとドジな性格だった。

 
1983年  父の仕事の都合で、西ドイツに移住。
 曇り空の似合う、北部のヴェストファーレン州メーアブッシュ町に2年住まう。栃(カスターニア)の街路樹が続く住宅地にある濃緑色の小ぶりなマンション。階段の床石に含まれているアンモナイトに執着し毎日眺めるのが習慣だった。
 地元のプロテスタント教会付属の幼稚園に通う。恐竜・化石と本が大好きだった(とりたてて読書好きというわけではなかった)
 日本の食べ物や本は貴重で、ある日、楽しみにしていた納豆を1パック充てがわれず、「日本に帰ったら100個食べるからねっ!」と泣きわめいたが、言いながらも内心(100個は無理だろうな)と思った記憶がある(ちなみに中学時代の13個が最高記録)。
 絵本や図鑑の他に、遅れて送られてくる子供向け雑誌や父の科学雑誌を毎回楽しく眺めた。

 
1984年   地元のブロントシューレ(小学校)に通う。登校時はよく霧が出て、冬は極寒であった。室内の温かみが印象的だった。

 
 

 
   ぼんやりした子どもで何事においてもトロかったが、先生は「Daichi ist Daichi(ダイチはダイチよ)!」と言ってくれて、とても寛容だった。
 休日には時々、家族で車に乗って欧州各地を旅行した。デンマークには父の旧い友人がいて何度か遊びに行った。
 近辺に住むいくつかの日本人家族とたまに交流があったし、ドイツ人の友人ももちろんいたが、だいたいは弟と二人で遊ぶことが多かった。
 ライン川河畔で父から自転車の乗り方を教わった。
 ドイツ語を習得していなかったことで、子供心に次第に学校生活がキツくなってきていた。

 
 1985年   帰国。 帰途、シンガポールに立ち寄る。
 元の神奈川県綾瀬市の家に戻る。
 父は脱サラして、ドイツのキッチン用品を主に扱う輸入卸業を始めた。

 小学2年の夏から、地元の綾瀬市立落合小学校に通う。放課後に毎日居残りで、先生に漢字を教えてもらった。マッシュルームカットの髪型のせいかドイツ帰りが目立ったのか、おっとり系頑固者の性格のためか口が軽いせいか、よく苛められた。体力がなく、カナヅチだった。体に悪い所は特にないが胃腸の弱い少年で、給食後にはしょっちゅう腹痛になり保健室のお世話になった。動物好きで、色々な生き物を飼った(金魚・鯉・フナ・ミドリガメ・ハムスター・コザクラインコ・ウズラ・ニワトリ・セキセイインコ・蚕など)。犬猫は飼う機会がなかった。大人になるまで猫アレルギーがあった。
 つくば科学万博で、オムスビ―という玩具のロボットを買ってもらった。ピエロがポケットからひょいとくれた陶器のミニ蛙も嬉しかった。

 子供時分の将来の夢は、有名な医者か科学者になることだったが、学校の先生に「有名な」というところを注意され考えこんだ。
 習い事はバイオリン(幼〜小5)、習字(小5〜中3)、ピアノ(小5〜高2)、絵(小6)、英会話(小6〜中1)。いずれもモノにならなかったが、人生に影響は与えたと思う(バイオリンは二十歳くらいまでトラウマになっていた。音を聴くのも辛かった)。通い事は手話サークル(小4〜小6)、カブスカウト(小5)、日本宇宙少年団(小6〜中3)。小学4年の時にクラブ活動の卓球にハマった。
 岩手・福島県へ家族旅行。

  MEMO サブカルの摂取について:〈←クリック〉

 10才から日記をつけ始める(山梨の祖父を真似て。祖父は当用日記を結局16年続けた)。私の日記は次第に雑なメモ程度になりつつも38歳まで続いた。
 この頃の心境を振り返ると、帰属性についての強い孤独感をもっており(帰国子女としてなのか生活環境や性格のせいか)、それをどう処理するか、また生の不安をいかに生命讃美に変えるのか、そんなことをよく考える思索少年だった。レンガ壁の市立図書館の匂いと雰囲気が好きだった。
 佐渡ヶ島へ家族旅行。

 
  1989年  小6のときクラスメイトと仲違いをこじらせ、またよく苛めらるようになった。なぜかランドセルはドイツ製の四角い緑色のを使い続けていて意味もなく目立ち、帰宅するとたまに上履きの跡が付いていた。個人主義が根本にある性格のため仲間はずれは苦でなかったのだが、いつも素晴らしい友人が周囲にけっこういて、その面では恵まれていた。
 修学旅行は静岡県浜松。
 友人3人と近所の神社まで行き来する早朝散歩をしばらく続ける(長野の祖父の習慣を真似て)

 
 

 
    MEMO 少年期を振り返ると

 
 1990年  綾瀬市立春日台中学校入学。
 多感で、淡いノスタルジーに浸りながらの中学時代を送る。
 人気のない自然科学部に所属し、夕方までよく校舎に残っていた。釣り・登山や天球儀・カメラ作りをかじった。仲の良い担当教師としばしば口論になり、8度退部し9度入部し直した。登山では薄手の赤ジャージ・スニーカー姿で奥穂高岳に登頂、無謀な部活動だった。
 じつはこの頃、やっとオネショをしなくなった。
 中1の夏、禅に憧れて母の親友のお寺に頼み、山梨県の身延山山頂で住み込みの手伝いをした。禅宗でなく日蓮宗だったと後で気がついた。
 成績がまずまずだった中1の終わりに、多くの人が通う長後のステップ学習塾に入った。以降、自分にテレビゲームを禁じる。あっという間にそこそこの成績にまで上がったのが嬉しかった。

 中2は、もっとも夢見心地に過ごした思春期だった。
 夏、日本宇宙少年団(YAC)の研修旅行でワシントンDCとスミソニアン博物館、ナイアガラの滝、トロントなどを観てまわる。
 中3では塾のおかげで受験勉強が楽しかった。体育だけが苦手のままだった。
 修学旅行は奈良京都。

 
 1993年  神奈川県立海老名高等学校入学。
 学区外の高校に入る。学力の低迷に喘ぎつづけ、青春に苦悩し眼高手低が辛く、まぁ色々とほろ苦く切ない高校生活を送った。と同時に、先生と友人には恵まれた。
 昔からの念願だった図書委員会に特別枠で入る(高1〜高2)。 
 高1の時、父の仕事の用事にくっついてドイツとアイスランドを旅行。
 一家で海老名市に引っ越す。田園風景と住宅街が区画ごとに広がる街で、駅前だけが急にごちゃごちゃと開けていった。
 高2の時、友人と町田市の東進ハイスクール予備校に通う(〜高3)。文章力に関してはこの頃に強化されていったと自覚している。
 高3は特に鬱々して過ごし、青春の苦悩や思索をよく友人とミスドなどで語らいあった。嫌いな化学のテストを白紙で出し赤点をとる。
 修学旅行は美しき北海道。

 
 1996年  大学入試に落ち、自宅で浪人生活を送る。
 なぜか浴衣姿ですごし、悶々としながら、密かに科学や文学に憧れていた。内心の躁鬱の起伏が極めて激しく、なかばそれを楽しんでもいた。
 予備校には通わず通信教材を用いていたが、勉強ははかどらなかった。友人らが頻繁に予備校の模擬テストのチラシを持ってきてくれた。

 
 1997年  日本大学 生物資源科学部(生物環境工学科)入学。 
 長い学科名だが、内実は農学部・農業土木科。水田や建物の構築、測量、自然環境問題などを学習する。
 藤沢市湘南台にある緑豊かなキャンパスで、心身とも自由を満喫して怠惰とアカデミックな雰囲気に酔いしれて過ごした。青春に悩みつつも、ある種とても幸福な4年間であった。

 入学してすぐに卓球クラブに入部したが、運動部を仕切る体育連盟のヤクザ風の横暴に反感を持ち、ひと月で辞めた。
 1年時、やる気充分で講義を月曜から土曜までの時限を朝から夕方までフルに取り、必要単位の大半を修めた。先生や友人とよく談話した。
 とくに哲学の三浦義雄講師には影響を受け、多い時には週3回、卒業後も月1でドトールや飲み屋で語らった。よく議論をし、様々なことを教わり、まま大喧嘩もした。先生は、自然環境と人間社会との軋轢について思想史や技術史から見つめ直し、『滅びのアテナ』という厚い本にまとめた。私に「デカルトを読んでごらん」と教授してくれたのもこの先生だった。(→ブログ「デカルトの重箱」の2017年3/21稿「『省察』の読み方は「せいさつ」」参照)

 夏、沖縄を旅する(中学時代の友人と行き、途中から一人旅。高3の時にも家族で沖縄ツアー)。沖縄は魂を強烈に惹きつけた。
 長野県の軽井沢にも2度旅行。

 
   

 
   2年次からはほとんど授業を取らず青春を楽しみ、読書・映画鑑賞・博物館めぐりなど、気ままな方向に努力していた。
 山や川へ化石採集に行ったり、あちこち寺を巡って御朱印を集めもしたが、十年続くような趣味にはならなかった。
 3年次、ゼミの仲間と秋田・北海道を旅行。 また神奈川県内の相模湾湾岸を断続的に歩き通す「海岸ウォーク」を企画し、やはりクラスの友人数名で敢行、この徒歩小旅行は全7回に及んだ。暇でロマンを追いかけていたのだろう。
 パソコンやインターネットに親しみだしたのはこの頃。まず最初にブラインドタッチを習得したのはよかった。
 4年次、皆が就職活動に励む頃、我流の卒業論文「水田形態の相違による生態系の比較」に打ち込んでいた。担当のゼミ講師は無能かつ極めて陰険でキレ易く表裏があり、面白いほど苦しめられた。他ゼミの先生方に随分助けてもらった。
 必修科目(熱力学)が苦手で最終テストを蹴った(江ノ島で天ぷらを食べていた)ため卒業が危ぶまれた。卒業アルバムの制作にはかなり凝ったが、それも上手くできたわけではなかった。

 
 2001年  大学卒業。就職活動に興味がなかったのでエスカレーター式に無職になる(就活をしなかったのはクラスで私だけだった)
 野鳥観察のアルバイトまがいのことと道路警備員のアルバイトをしたがやがて辞め、家やカフェで本を読みぶらぶらしていた。
 時折、父の輸入業の手伝いをした。
 夏、私の生活に母が激怒。売り言葉に買い言葉で黄色いママチャリにまたがって家を出ると、そのまま当時の恋人がいた北海道まで行って帰ってくる関東・北海道・東北・甲信越1ヶ月間の旅となってしまった。インドア派なのにテントや寝袋を途中で買い込んで、野宿しつつの旅の日々だった(その後も札幌は何度か訪れた)

 
 2002年  夏、思いついて「点字フォント」を制作。情熱を注いで一気に完成に至ると、ひと夏が終わっていた。初めてウェブサイトを作り公開。五十音に点字をあてた文章作成ソフト用のフォントとして国内初のものとなった(河西白雨というペンネームで)

 
 2003年  近くの座間市立野台にアパートを借りたが、料理が不得意で腹が減るのでほとんど毎日実家におり、一人暮らしを失敗。父の仕事を多少手伝う。主に、イタリア製のペレットストーブの展示会など。横浜や岩手や長野に出向いた。
 父母の畑にピザ窯を作ることになり、『手づくり石窯BOOK』(中川重年編、創森社、2003)にその工程が載る際、手伝いながら写真を撮った。すると巻末の取材協力の欄に名前を載せて送ってくれた。本という情報媒体に憧れがあるのでなんとなく嬉しかった。

 
 2004年  隣市の大きな図書館で司書手伝いのアルバイト(4月〜12月)。職場にいるほとんどが女性で、時には仕事がうっとりするほど楽しく、時にはゴキブリのように嫌われて苦痛もあったが、いずれにせよ本に囲まれて過ごす時間は至福そのものだった。
 高校時代の友人と2人で「鳥と化石魚」ウェブサイトを開設(〜2008)。簡単なGIFアニメーション、歌、エッセイ、イラストなどを作って自己満足の表現方法を模索する。友人とよく海老名の街をぶらぶら散歩した。
 実家の向かいに千葉正士さんという東京都立大名誉教授(スポーツ法学)が住んでいた。高齢で体が悪いのでと呼ばれ、本の整理を時々手伝い、小遣いをいただく。作業の後にはいつもご夫婦で人生についてのアドバイスをくれた。

 
 2005年  1月〜11月、アジアひとり旅。
 頭を丸め、75Lのバックパックを背負い、父母弟に海老名駅で見送られて電車で横浜、深夜バスで大阪、船で2日かけて上海に渡る。その後中国・ベトナム・カンボジア・タイ・マレーシア・インドネシア・ミャンマー・ラオスを旅した。コーヒーと読書に幸福を感じ、旅の出逢いの妙はまるで魔法がかった世界にいるようだった。人生の不思議と自由の喜びとを最高度に味わった気がする。
 インドネシアでは、出会った長崎大医学部の学生らと一緒にニアス島に渡り、津波被災地のボランティアに参加。
 先述の三浦哲学講師が孤独死してしまっていた知らせを受け、気落ちしてラオスから帰国の途に就いた。奇妙なロングヘアーの風貌で帰宅。今まで自分はフリーターだと思っていたが、帰国するとニートという新しい言葉ができていてそう呼ばれた。

 
   

 
 2006年  3月〜6月、ふたたびアジアへ。
 タイ・カンボジア・コルカタ(インド)を旅する。父が心筋梗塞で入院した知らせを受け帰国(最新医療技術のお陰で父は助かった)
 結局、世界一周は全然実現しなかった。
 6月〜12月、北海道道東の屈斜路湖の近くにあるユースゲストハウスでボラバイト(翌年1〜2月にも)。北海道はとにかく美しい。

 
 2007年  茨城県水戸市に移る。移るというか、越したのは事実だが、まぁ、…いろいろとあったのである(いつものことだが)
 水戸はすっきりしたフラットな都市で、田畑も多く、どこか昔ながらの質感が残っている街だ(私は水戸黄門も納豆も大好きだった)
 ゼンリン住宅地図の調査員アルバイト。風雨と日差しがキツいながらも茨城県を歩き回り、職場の仲間と戯れて楽しかった。

 
 2008年  神奈川県海老名市の元実家のあった家(父母は伊勢原市に引っ越した)にて暮らす。
 厚木市の工場でパソコン修理バイト(2ヶ月)。機械の分解作業に少し慣れた。
 フィリピン旅行。伊豆にも旅行。
 弟が(自動車エンジン開発の会社を辞め、やはりアジアを旅した後に)父の仕事(貿易業)を継いだ。
 楽しい中学校同窓会があった。先生から「みんな成長してるのに、なんでお前だけそのまんまなの?」と笑われた。(どういう意味?)

  MEMO 青年期を振り返ると

 
 2009年  結婚。妻はビーズアクセサリーデザイナー。いわゆるニートの花婿に、結婚式(大磯プリンスホテル)では皆が気を使ってくれて優しかった。
 夏、北海道(美瑛・弟子屈・礼文島)に旅行。 
 座間市の起伏と緑の多い住宅街にあるウィークリーマンションに3ヶ月間住む。秋、京都を旅行。
 この頃何度か、東京(阿佐ヶ谷)で開催された文字と印刷に関する市民学術イベント「もじもじカフェ」に参加、楽しかった。

 
 2010年  4月、フランス(パリ)1ヶ月間の旅行。らせん階段でホテル6階に上り下りする生活は鍛えられる。

 
   

 
   10月、宮城県へバス旅行。
 12月、長男誕生。 
 神奈川県川上郡中井町のアパートに越し、畑の区画を借りてのどかに暮らす。森に囲まれた気持ちのよい田舎。本を書いていた(つもりだ)がどれもこれも完成せず、生活に苦悩し、体調を崩す(過換気症候群やパニック障害)。パソコンのやり過ぎやコーヒーの飲み過ぎ(10〜15杯/1日)が原因だったことが次第に分かった。なお、私は煙草は吸わず酒もほとんど飲まない。

 
 2011年  3月11日、東日本大震災発生時は大磯の海岸道路を家族で藤沢方面に向かっているところだった。
 藤沢でたまたま境川を遡る津波を見た。渋滞と停電の町を夜までかかって帰宅し、テレビで惨状をみて唖然。放射能について友人知人と情報共有し対策する非日常の数週間を過ごす。自分宅の被害はほとんどなかった(妻の実家は茨城県東海村なので、道路などインフラがめちゃくちゃになり、家にも縦割れのヒビが入るほどの被害)
 
東京で行われた3つの反原発デモに参加。やがて、近所に放射能のホットスポットが見つかったことがわかる。
 4月、家族で小さな車に乗って九州までの旅に出た。避難と移住先検討をかねた突拍子もないこの家族旅行は40日間に及び、馴染みの薄かった西日本を味わう有意味なものとなった。主な滞在地は名古屋・伊勢・大阪・岡山・広島・山口・長崎・熊本・島根・大阪。

 6月中旬、沖縄県糸満市に移住。妻がインターネットでさくっと契約した、さとうきび畑に囲まれた集落にあるアパートへ。
 6月23日(沖縄の慰霊の日)、思いたって平和祈念公園の式典に出向き、菅直人首相に脱原発を求める手紙を投げ渡すと、警察に連行・事情聴取され、翌朝の琉球新報と沖縄タイムスに小さく記事が載った。警察は親切で、来沖のよい記念になった。
 南国の海と自然と文化……沖縄は憧れの場所でもあったので、数ヶ月間は気持ちがふわふわと夢見心地のままだった。

 
 2012年  すっかり沖縄での生活に慣れきって、ソーキそばも連食しなくなり、観光することも美しい海を眺めることも少なくなった。沖縄での生活は温湿度と野菜・魚が自分に合わない。とはいえ、何に関してもギスギスしない所がとても好きだ。(関東はギスギスすぎだ!)
 琉球ガラス村に短時間パートとして勤務。チラシ作りやサンドブラスト加工など雑多な仕事を担当。仕事と趣味とを混同しながら、琉球ガラスの歴史や現状や作品を調べたり、収集をはじめる。図書にまとめることを前提に方方の工房を取材して回る。
 矢ヶ崎克馬先生(琉球大学名誉教授)ら率いる、被災地がれき受け入れ問題についての会合の講演を聞く。この先生は素晴らしい。

 
2013年  個人的にひどい1年だった。胎児を亡くした。琉球ガラスの研究と収集は進んだが、本の執筆は中断。

 
 2014年  5月、台湾旅行(両親と家族と)。3ヶ月ほど続いていた(自然治癒はほぼしないといわれる)片側顔面痙攣が、台湾でカッサー(グワサー:牛の角でできた小さなヘラ)のマッサージを受けそれを自分でも真似してやっていたら、数日で完治した。
 琉球ガラス村で受けたインタヴューが短い記事として琉球新報(5月15日付)に載る(しかしこの年の琉球ガラス史研究は滞った)
 当ウェブサイト「河西大地の手植えノートWebsite」開設はじめて実名を表に出して、多少自分で気恥ずかしい。
 17世紀フランス人哲学者デカルトについての情報のあれこれを批判的に取り上げるブログ「デカルトの重箱」を開始。
 12月7日、初出場したNAHAマラソンを6時間10分かけて完走。嬉しかった。翌日は全身極度の筋肉痛で寝込んだ。

 
   

 
 2015年  5月、琉球ガラス村(パート)を退職。以降、研究・執筆と育児・趣味・諸々のアルバイト。
 6月、香港に短期滞在(妻の仕事にて)
 8月、この「手植えノートWebsite」内に、「琉球ガラス〈資料編〉website」と「沖縄のガラス瓶〈資料編〉website」を加え公開。

 東京の町田市立博物館「沖縄の工芸 ―琉球ガラス・陶磁器・染織・琉球漆器―」展(9/8〜10/18開催。2016.4/16〜6/19愛知県陶磁美術館へ巡回)に、琉球ガラス数点を貸出。
 神戸芸術工科大学の佐野浩三教授に琉球ガラス史の基礎資料を提供。(佐野教授はデザイン学(建築)が専門で、神戸洋家具産業の歴史を中心にすえた「自生的スポンテニアスデザインの事例収集及び発生要因と構造特性による類型化の研究」で、琉球ガラスの事例も研究素材のひとつとして考察された。)

 11月、二男誕生。
 12月、ポプラ社のコミック版・世界の伝記 『ルイ・ブライユ』(迎夏生・漫画、金子昭・監修)に巻末資料写真を提供。ブライユは点字発明者。

 
 2016年  冬・春、育児に非常に苦悩しながら生活と研究・趣味・雑事に雑然とした日々を送った。
 収集した琉球ガラスは1000点を超え、蔵書も古書など(デカルト・哲学・ガラス工芸・美術)も10000冊を超え、狭いアパートが尋常でない状況になる。けれど、こうした物品が大切なのは、他にさらに大切なものがあるからだという真理は押さえておきたい。
 茨城・神奈川に年1回のペースで帰省する。その際ついでに神保町(東京)に宿をとり、古書街巡りをするのが楽しみとなっていた。
 夏・秋、やっと育児・生活・研究の調子がとれはじめる。10月、九州(福岡・宮崎・鹿児島・大分)を家族で旅行
           
 
   

 
 2017年  運動不足で風邪ばかりひき、顔のシミ・シワが増えるなどの老化現象が目立つようになる。
  近所の子供たちともよく遊ぶ。子供は人類の宝だが、しょっちゅうイライラし子らを叱る。とても良寛様にはなれない。
 5月、近所の悪童をかまってギックリ腰を初めて患う(1ヶ月で治った)。6月、短期帰省し10年ぶりの中学校同窓会に出席。
 7月、近所の小5少年らの誘いでLINEを遅ればせながら開始。旧交を温めるのは時間の浪費ながら楽しい。
  夏〜秋、週7日間ひっきりなしに近所の子供たちが大勢この狭アパートに押し寄せてきて、ぎゅうぎゅうの溜まり場状態となっていた。
  収集した琉球ガラスは2000点を超えた。

 
 2018年  1月、自著の発行所として「白雨草木庵」の屋号を掲げる(9月公開。ISBN(国際標準図書番号)出版者番号は909582)
 2月、40歳になった。不惑? とんでもない! 苦悩続きの日々、打開策を模索。
  源ノ明朝フォント(Google・Adobeの共同開発オープンソース、2017年)のひらがな領域を改変して派生フォントを制作。細部まで気に入るひらがな書体がなかったからだ。オリジナル書体でモノを書くのは気分がいい。
 9月、携帯電話をPHSから世間並みのiPhoneに。道具が変わると少し生活スタイルが変わるが、メインの使用道具はパソコンとノートとペン。

 11月、
『琉球ガラスの年代物コレクション 〜沖縄ガラス工芸図鑑〜を出版。
  延期に延期を重ねさらに著作内容を変更しまたさらに自分で決めた〆切を何十回も破り、やっと初めて本を世に出した。方々に感謝。
  本を作るのはとんでもなく面倒な作業群で心身ともヘトヘトになった。構想から6年半の紆余曲折を経て、本来作るべき内容からのスピンアウトを上梓したので不満はあるし不義理も山積したままで心苦しくもあるが、何にせよ史上初めての琉球ガラス解説本を世に出せたのは嬉しく、琉球ガラス業界や沖縄に多少は御恩返しができたと思うとほっとする。ばんばん売れるような本ではないから、これから手売りなどで稼がねば… 本書を皮切りに、挑戦的な良書を作っていきたい。

 12月11日付、琉球新報の記事で拙著を紹介して頂いた。反響で行く先々声をかけられ、近所の子らに写真写りの素振りを真似された。
 12月中旬、琉球ガラス村の入口歴史展示ブース(リニューアルオープン)に、歴史考証と現物展示品貸出(十数点)の面で協力。
 12月、電子キーボードを中古で購入、20年以上ぶりにピアノ曲にタッチ。クラシックでなく、よく車で聴いている西村由紀江の曲ばかりを。(その後1年ほどでその趣味も途切れた。)

 
 2019年  1月6日付、琉球新報の日曜読書欄「晴読雨読」に記事を書く。私が紹介した本は『点字発明者の生涯』(1984)。新聞紙面の本文中に墨点字表記を載せるのは規格外で困難らしかったが、ブライユ生誕210周年の年の命日にそれが実現できて心底嬉しかった。そしてこの記事は、私にとって人生で初めて原稿料を頂いて書いた文章でもある。編集A.C.さんに感謝。
 1月29日付、FM沖縄の朝の番組「Fine!」にゲスト出演。松田礼那さんからインタビューを受ける「ファイナー」という7分ほどのコーナーで、琉球ガラスについて話をさせて頂く。ラジオの収録は初めての経験で楽しかった。音源編集の巧みさとパーソナリティの話の上手さに感動。
 2月14日付、コミュニティ放送局ぎのわんシティFMの夜の番組「幻の焼鳥BAND・コックピットへようこそ!」にゲスト出演。1時間という長い枠があっという間に感じる、琉球ガラスや拙著にまつわるトークを楽しく収録。収録風景の動画で初のYoutube登場。動画は気恥ずかしいもので、普段からいかに自身の挙動を客観的に見られていないか思い知った。パーソナリティはさすが上手い。

 3月11日、東日本大震災から8年。宜野湾市にある東本願寺沖縄別院の屋上へ“わすれなの鐘”をつきに。
 4月7日付の神奈川新聞・日曜読書欄に「かながわの本」として拙著が紹介されたのは、私が神奈川出身で発行所も神奈川に置いてあるから。文章は鉄道関連の記事や活動で著名な斉藤大起さんの手によるもので、製品文化の保存活動をも行なう記者ならではの評論にグッときた。
 4月、小中学生向けの学習塾に講師として3週間だけ勤める。生活&育児/勤務&支度/読書&執筆の調和がとれず四苦八苦。
 5月、長女誕生。
 6月付、FM沖縄の夕方の番組「オリオンびあぶれいく」にゲスト出演。山田真理子さんがインタビュアーの木曜「知っているようで知らない沖縄」のコーナー(7分×4回)で琉球ガラスの話をさせて頂く。ディレクターMさんにも感謝。

 6月末より豊見城市教育委員会文化課に市史編纂事業の嘱託員として勤務。PC作業ばかりだが、本・資料・民具・遺物に囲まれて過ごすのは心嬉しい。
  育児には相変わらず一喜一憂して悩む。鉛筆画を描くのがこのところの趣味で、自画自賛。
 8月、革細工に初めて挑戦、ビジネスバックの合皮把手を本革に直してみた(1回のみで、結局は続かなかった)
 9月、サイト内に『琉球ガラスの年代物コレクション』の〈増補ページWeb〉を公開。本の追加資料をウェブ上で順次発表。
 10月、沖縄県地域史協議会に仕事+興味で初参加。他にも、大学や古書店が主催の講演会にいくつか参加。一視聴者としてだがこういうのは珍しい。
  職場の上司K.S.さんに、那覇の慰霊碑の説明パネルの前で、遅ればせながらQRコードの使い方を教えてもらった。早速自作、カラーでもできた。
 12月、仕事を休み、小3の長男に学校を早引けさせて、公開初日午後、『スター・ウォーズ』のエピソード9を浦添パルコに観に行く(初めての4DX体験。これで、私の生まれた年に日本で公開され、小4の時「金曜ロードショー」(録画)で観て衝撃を受けたスター・ウォーズのシリーズも、ひとまず最後まで観られた。映画の中身はともかく、とても幸せな心境だった。年明け早々にも元上司らと再度観に行く(近年恒例になっている)。帰りは夜な夜なコーヒーを飲み交わしつつ、いつものように人生観や面白話の会話を弾ませた)

 
    MEMO 2020年1月の混沌

 
 2020年  2月、YouTube用の動画の構想を始める(Twitterも9年ぶりに再開)。世間では昨年からYouTubeの投稿がいよいよ充実し、自分も視聴は増えていた。
 3月、「絵点字で!」YouTube動画チャンネル、および「デカルトの森」YouTube動画チャンネルを開設、投稿開始(次の投稿は9月となった)
 4月、新型コロナウイルスの蔓延が日本と世界の状況をおかしくしている頃、私は仕事を市史編纂から市立図書館の週数日パート勤務などに職替え、のちに週1に。市史編纂関連の仕事も(上司のはからいで)引続きリモートワークとして継続。
 5月、オンライン飲み会なるものを小高大学時代の友人6人と1度行なってみたが、自分のLINE回線はブツブツ切れた(4時間、夜中4時まで)
 8月、図書館パート勤務を退職。また、琉球ガラス村に新設の「ガラスの自由研究室」内の壁面図制作に関わったものの頓挫。
 12月3日付、日本経済新聞の文化欄に記事を掲載。「時代を映す琉球ガラス」という良い見出しをつけてくれた。一人称の記事だが、Y.K.記者さんらが練ってくれた文章で、推敲のレベルが高く勉強になった。いい記事になって嬉しい。
写真を撮らせてもらったカフェのN.M.さんにも感謝。(ただ1箇所、琉球ガラスの発祥地を那覇市の「奥武山」と書いたが「奥武山付近」とすべきだった自分のミスに後から気づいて、200万部出ている全国紙なのにとゾッとしている.)
 12月9日〜27日、沖縄県立図書館の3・5階展示スペースに「琉球ガラスの歴史展」を担当
(9月コロナ禍第2波にて延期分を)。工房さんからも借り出し、「現代の名工」8名全員の作品を一挙展示する初の展示ともなった。
 12月16日、沖縄県立図書館内にて1時間半の講演
担当のH.O.さんに感謝。

 
2021年
 
(コロナ禍は第3波のさなかである)
 1月、豊見城市教育委員会文化課の(リモート委託でのデータ作成)業務を断続的に続投。
 2月、点字フォントの増量動画作りに熱中。
 3月、(コロナ禍は第4波到来)昨年から引き続き友人親戚関係が希薄になった反面、読書と創作に集中。子育ては一喜一憂。
 4月、沖縄県琉球ガラス製造協同組合に(予定当初より4ヶ月遅れて)事務のパート勤務を開始。会計さん以外の事務局員は私1人なので苦難の連続だった。
 5月、公私ともに個室を充てがわれるシンクロニシティに、人生がまたどたばた動き出した。
 7月13日、組合事務局員としてNHK福岡「はっけんTV」に昼前10分間の電話生出演し、琉球ガラスの製品史を解説。
 10月15日付、マンション生活情報フリーペーパー「ウェンディ」に、琉球ガラスの歴史に関する記事を掲載(紙面PDF版Wendy-Net版)。

 
 2022年 (コロナ禍は第6波がはじまった)   MEMO 2022年1月の状況と心境

 1月、「シューベルトの子守歌」を改作(なかなか寝ない次男のために)
   「絵点字で!」Youtubeショート動画の「点字単語帳」「点字和歌集」を公開。
 2月、同、「点字句集」を公開。
 4月、娘がこども園入園、次男が小学校入学。長男は6年生になった。(法律が変わり成人年齢が20歳から18歳に)
 5月、墨点字フォント「触読感覚」シリーズ(3種類)を公開。
 6月、沖縄県琉球ガラス製造協同組合の事務局員パートを退職。
 7月16日、講演「知られざる琉球ガラスの歴史」(豊見城歴史文化同好会主催・豊見城福祉センターにて)を開催、2時間弱お話しした(2022年は国連の定めた「国際ガラス年」で、沖縄施政復帰から50年目にもあたる、そういった節目を念頭に置いた。7月24日付「琉球新報」に関連記事が掲載された。富山高専の袋布昌幹教授が文科省の「ガラス(一家に1枚)」ポスター手配、そして「国際ガラス年2022」ウェブ上に講演告知の再掲載、また報告レポートを記載してくださった)

 (コロナ禍第6波は半年以上も続き、そのまま第7波が到来。私は自身のワクチン接種は敬遠しているが、コロナにはかからない。マスクはする)
 7月中旬、中古車が壊れ買替えが必要となる等で酷い金欠生活。お世話になっている方々に何の御礼もしない不義理ばかり、けれど本は買い足してしまうし外食もたまにとってしまうのだから、結局、相変わらず自分本位ばかりの生き方をしているということだ。
 8月下旬、与論島に1泊旅行(フェリーで往復)

 10月10日、「【公開提案書】 日本の点字の改革案」をウェブ上に掲示。点字文化に携わる諸組織や個人に連絡し広く意見を募る。数々の問題を抱える点字文化の文法・制度・思想を変革したいという思いで実施した個人的な趣味活動である(→YouTube音声版)
 10月16日(日)、RBC(琉球放送)の長寿番組「ウチナー紀聞」(第1011章 移ろう景色と共に 琉球ガラスの多様性)で、琉球ガラス製品や工房が特集されたその冒頭に、琉球ガラスの製品史についてインタビュー出演(ディレクターNさん。撮影は9月22日)
 10月下旬、当ウェブサイトをSSL化(近年の「保護されてないサイト」表示を消す。URL先頭がhttpからhttpsに)

 (コロナ禍第8波が緩やかに始まった。が、欧米などではコロナ禍はすでに収束したとみなされ、それよりも激しいインフレとウクライナ戦争の影響に混乱しているようだ。日本でも物価高と円安で、多くの庶民が今後の生活に不安を覚えている。私もそうである。)
 11月、様々なことに奮闘、混乱。
 12月、大腸カメラ検査を初めて受診(痛くはないがツラかった。慣れないことで何だかとても疲れた…)

 
2023年 (コロナ禍は第8波さなか)

 1月2月、概ね混沌と停滞の酷い生活を送りつつ、その中でいくつかの僥倖に恵まれた。人生は不思議だ。
  (あるとても高名な博士2名と個人的にやり取りがあったり、中高時代の恩師とのやり取りがあったり)
 3月、〈画廊沖縄〉の美術情報誌「The Gallery Voice No.68」に、記事「稲嶺盛吉の琉球ガラス」を寄稿(稲嶺盛吉氏は2023年9月に惜しまれつつ亡くなったが私は12月にようやくそのことを知った)
 3月末〜4月初め、神奈川や茨城に3年ぶりの帰省。桜が美しかった。
 4月末、点字フォントれんしゅう白板のWebページを制作、公開
  昨年末から絵本2冊(『琉球ガラスのつくりかた!』『琉球ガラスってなあに?』)を制作していたが中断。

 5月〜、ある小学校図書室に勤務。工夫挑戦・試行錯誤・四苦八苦・希望失望・七転八起の日々を送る。家でもかなりの仕事(無賃労働)をする。まるで趣味に没頭しているようで愚かしいが、ベストを尽くすのみだ。
 6月、遅れ馳せの図書室オリエンテーション用のネタとして、NDC分類の類を内容イメージとダジャレと振付で覚える方法を思いついた。生徒たちはとても盛り上がってくれた。「イメージでおぼえる! 日本十進分類法0〜9類」と題して、のちにプリントにまとめる。(「としょしつだより」のために作ったのだが、自宅PCで自分の時間に自分が独自に勝手に作ったので著作権は自分にある。一部改変して、全国万人向けにこちらで公表(PDF版)JPG版PDFカラー版JPGカラー版JPG縦長版を10月23日公開済み。のちに11月4日に改訂版のページをつくった)
 7月、図書室内に600冊以上あった禁帯本(貸出禁止の本)をすべて解禁、辞典も図鑑も貸出可能にかえる。
 8月、だいぶ仕事がこなれていい感じ。毎日、ヨシタケシンスケの絵本の人気ぶりと内容とに嫉妬。

 9月、糸満市内と沖縄県内の学校図書館全体の運営方針にかんして、2つ議案をあげる。 →MEMO

 10月、編集工学者・松岡正剛氏の読書案内ブログ「千夜千冊」を私も延々と読んできているが(1833夜のうち984稿を読んだ。まだ半分か…)、その傑作稿にリンクを貼った表を「【千冊千冊】傑作選リスト」と題しWeb上に公開。
 
 
2024年  (元日から能登地震の不穏なニュースではじまる)

 昨2023年は自分にとって漢字1字では「乱」の年だった。本2024年は「決」の年になると予感している。

 1月、小学校図書室に〈大だるま〉完成。低学年の子どもの背丈よりも大きくて丸いので大人気。嬉しい。
   那覇の首里地区に達磨寺があると聞きさっそく訪れる。子どもにも楽しい心嬉しいお寺。
  離婚。
  (コロナ禍はほぼ過ぎ去った生活感覚がある。が、実際には第10波が到来し、インフルエンザとともに流行中)
 2月、46歳。体力に衰えは感じないが、外見(顔)と内面(感受性)が摩耗してきている。
 3月、ある先生が「ほんとうの〈師走〉は12月ではなく3月」と言っていたが、まさにそういう年度末。

 


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  時系列で細かな情報を記してみたが、一個の人間の半生がどれほど伝達できたかというと心もとない。
  情報は選択的だし、細部のエピソードも感性的なニュアンスも、多くが零れ落ちている。
  足跡には、当然ながら、現在の私にまで残存しているものと、影響の消えてしまったものとがある。
  そういうわけで、以上、さほど有意味でもない主観による〈気ままな経歴〉でした。
  ※ぜひ、みなさまご自身の人生録も残してみてくださいね! 何かが浮かび上がってくるはずです。
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