嗜好: 旅好き、本好き。 人好き、一人好き。
   興味: 自然科学、哲学、文芸、美術分野に惹かれる。
   思想: 反体制・生命讃美・懐疑主義ぎみ。信仰はもたない。
   容姿: ファッション・トレンド・ブランド・プライドに疎くダサい。
   身体: 身長173cm・体重65kg。運動能力は鈍め、スポーツ全般に無知。
   七癖: 記録癖・収集癖・放浪癖・討論癖・健康志向・束縛嫌い・のんびり癖あり。
2002年 「墨点字フォント」 と「絵点字フォント」を趣味で開発し公開。
     
(五十音に点字をあてた文章作成ソフト用のフォントとしては国内初。河西白雨 名義)
2011年 「パリ、ルイ・ブライユ紀行」エッセイをWeb上に掲載。
    「デカルトの羽根ペン、木漏れ日のテーブル」サイトを開設。 
2014年 「手植えノートWebsite」開設。
    「デカルトの重箱」ブログを開始。
2015年 琉球ガラスと沖縄ガラス瓶についての情報の掲示。
2018年
『琉球ガラスの年代物コレクション 〜沖縄ガラス工芸図鑑〜を出版。
1978年 山梨県生まれ・神奈川県育ち。
2001年 日本大学生物資源科学部を卒業。
2011年 沖縄県糸満市に移住。 

       
                 
■当ウェブサイトは
私的な趣味&仕事の
情報目次ページです
                 
     
          
           



















































<気ままな経歴>

1978年2月10日 午前10:30、山梨県甲府市にあった清水八束病院にて出生。
 血液型はO型。へその緒を首に巻いた癒着痕が、成人する頃までわずかに残っていた。
 母の実家(韮崎市)で1ヶ月、のち神奈川県横浜市戸塚区のアパートで2歳弱までを過ごしたらしい。
 父は真空技術の会社に勤めるサラリーマン(実家は長野県下諏訪町で鋼鉄加工業)、
 母は専業主婦(元幼稚園の先生。実家は山梨県韮崎市で稲作や養蚕業)。
 言い伝えでは、祖父の曽祖父に河西準之助というかんざし職人(兼発明家)がいた。古銭を溶かして鳥居を建てたり(中山道(国道20号)と県道184号の
 交差点の春宮大門に今もある)、紡績機や下駄スケートを製作。苗字を最初に貰い受けたのは、武田信玄&勝頼父子の部下だった河西但馬守とのこと。
 しかし寺が2度も焼け家系図が残っていないので詳細はことごとく不明。バックアップの重要性を誰も考えなかったのだろうか。家紋は丸ニ。


1979年 神奈川県綾瀬市の風変わりな一軒家に移る。ここで幼少期と少年期を過ごした。
 田畑や林の多い住宅地で、家のほど近くには新幹線の線路が伸び、高圧鉄塔がそびえ立っていた。
 大工が自宅として建てたというその家には2階建てアパートが付属しており、父は一時期そこで副業に学習塾を経営していた。
 庭には木々や池があり、のちにキウイが庭から伸びて広いベランダに達し、毎年わんさかなって窓から手を伸ばして採れた。
 和洋折衷で無駄な装飾が多く、リビングには飾り暖炉があった。私は3歳の頃、急階段から落ちて尖った御影石の階段角が
 下唇の下の皮膚を貫通、何針か縫う大怪我をした。
 弟が誕生。

1982年 地元の杉の子幼稚園に入園。
 生き物好きの子供だった。すでに運動は苦手でぼーっと考えごとにふけることが多かった。
 家族と親戚で長野県へスキーに行った際、リフトが怖くなって途中で降り頭から転落したことがある。目に見える怪我ではなかった
 ため周囲は気にしなかったが、一時的に意識がおかしくなった。いろいろとドジな性格だった。

1983年 父の仕事の都合で、西ドイツに移住。
 曇り空の似合う、北部のヴェストファーレン州メーアブッシュ町に2年住まう。栃(カスターニア)の街路樹の多い住宅地にある
 外壁が濃緑色の小ぶりなマンション。階段の床の大理石に入っているアンモナイトに執着し毎日習慣として眺めていた。
 地元のプロテスタント教会付属の幼稚園に通う。ライン川河畔で父に自転車の乗り方を習った。
 恐竜・化石と本が好きな子供だった(とりたてて読書好きというわけではなかった)。
 日本の食べ物や本などは貴重だった。ある日、楽しみにしていた納豆を1パック充てがわれず、「日本に帰ったら100個食べる
 からねっ!」と泣きわめいたが、内心(100個は無理だろうな)と思った記憶がある(ちなみに中学時代の13個が最高記録)。
 遅れて送られてくる子供向け雑誌や父の科学雑誌「ニュートン」を毎回楽しく読んだ(創刊0号から200号くらいまで実家にあるはず)

1984年 地元のブロントシューレ(小学校)に通う。登校時はよく霧が出て、冬は極寒であった。室内の温かみが印象的だった。
 ぼんやりした子どもで何事においてもトロかったが、先生は「Daichi ist Daichi(ダイチはダイチよ)」と言ってとても寛容だった。
 休日には時々、家族で車に乗って欧州各地を旅行した。デンマークには父の旧い友人がいて何度か遊びに行った。
 近辺に住むいくつかの日本人家族とたまに交流があったし、ドイツ人の友人ももちろんいたが、だいたいは弟と二人で遊ぶことが多かった。
 ドイツ語を習得していなかったことで、子供心に次第に学校生活がキツくなってきていた。

1985年 帰国。 帰途、シンガポールに立ち寄る。
 元の神奈川県綾瀬市の家に戻る。
 父は脱サラして、ドイツのキッチン用品を主に扱う輸入卸業を始めた。

 小学2年の夏から、地元の綾瀬市立 落合小学校に通う。放課後に毎日居残りで、先生に漢字を教えてもらった。
 マッシュルームカットの髪型のせいかドイツ帰りが目立ったのか、おっとり系頑固者の性格のためか口が軽いせいか、よく苛められた。
 体力がなく、カナヅチだった。体に悪い所は特にないが胃腸の弱い少年で、給食後にはしょっちゅう保健室のお世話になった。
 動物好きで、色々な生き物を飼った(金魚・鯉・フナ・ミドリガメ・ハムスター・コザクラインコ・ウズラ・ニワトリ・セキセイインコ・蚕など)
 犬猫は飼う機会がなかった。大人になるまで猫アレルギーがあった。

 子供時分の将来の夢は、有名な医者か科学者になることだったが、学校の先生に「有名な」というところを注意され考えこんだ。
 習い事はバイオリン(幼〜小5)、習字(小5〜中3)、ピアノ(小5〜高2)、絵(小6)、英会話(小6〜中1)、
 いずれもモノにならなかったが、人生に影響は与えたと思う(バイオリンは二十歳くらいまでトラウマになっていた。音を聴くのも辛かった)
 通い事は手話サークル(小5〜小6)、カブスカウト(小5)、日本宇宙少年団(小6〜中3)。小学4年の時にクラブ活動の卓球にハマった。
 岩手・福島県へ家族旅行。
 世代としては少年ジャンプ黄金期(ファミコン世代)だが、小5のとき手塚漫画(火の鳥/BJ)に熱中した。
 11才から日記をつけ始める(山梨の祖父を真似て。祖父は当用日記を結局16年続けた)。私の日記は38歳まで続いた(が、一旦止めることにした)
 この頃の心境を振り返ると、帰属性についての強い孤独感をもっており(帰国子女としてなのか環境や性格のせいか)、それをどう処理するか、
 また生の不安をいかに生命讃美に変えるのか、そんなことをよく考える思索少年だった。
 佐渡ヶ島へ家族旅行。

 小6のときクラスメイトと仲違いをこじらせ、またよく苛めらるようになった。なぜかランドセルはドイツ製のものを使い続けていて
 意味もなく目立ち、帰宅するとたまに上履きの跡が付いていた。修学旅行は静岡県浜松。
 友人3人と近所の神社まで行き来する早朝散歩をしばらく続ける(長野の祖父の習慣を真似て)

1990年 綾瀬市立春日台中学校入学。
 多感で、淡いノスタルジーに浸りながらの中学時代を送る。
 人気のない自然科学部に所属し、釣り・登山や天球儀・カメラ作りをかじった。仲の良い担当教師とよく口論になり、そのため
 8度退部し9度入部し直した記憶がある。登山では薄手の赤ジャージ・スニーカー姿で奥穂高岳に登頂、無謀な部活動だった。
 中1の夏、禅に憧れて母の親友のお寺に頼み、山梨県の身延山山頂で住み込みの手伝いをした。禅宗でなく日蓮宗だったと後で気がついた。
 中1の終わりに、多くの人が通う長後のステップ学習塾に入り勉強を始めた。以降、自分にテレビゲームを禁じる。
 中2は、もっとも夢見心地に過ごした思春期だった。
 夏、日本宇宙少年団(YAC)の研修旅行でワシントンDCとスミソニアン博物館、ナイアガラの滝、トロントなどを観た。
 中3では塾のおかげで受験勉強が楽しかった。体育だけ苦手のままだった。
 修学旅行は奈良京都。


 ◯ 少年期を振り返ると:
  西ドイツに幼い頃に住まったことは、自分の根幹に西洋風の何かを植え付けた。それはたとえば、母の山梨の故郷が緑深い丘陵に
  挟まれた美しい山河と田畑の田舎で、父の長野の故郷が香り漂う古い湖畔の温泉町で、これらが私にとっての日本という祖国の原風景
  になっているのと同様である。
  自分が少年期・青年期を過ごした神奈川県央はおしなべて中途半端な田畑と住宅地で構成されている。面白みにはやや欠ける風景で
  それほど愛着も執着もないが、こちらもやはり自分の故郷として基礎的な生活空間の認識を当然ながら捺印した。
  幼少期の影響から、私の意識の底には、何か石造りの西洋建築物や油彩画が内包する暗闇のようなものが染み付いている気がする。
  習い事が他の子供よりも多くしかも大半を挫折で終えたことや、金持ちでもないのにお坊っちゃん風に育てられたことは良し悪しで
  あった。おとなになって、することなすこと中途半端になり期限も守れないのは、幼少期の過ごし方に起源が辿れる。
  いっぽう、不器用なりに自力で考えながら歩んできたことは、自分の頭で勝負しようとする心構えと態度を培う訓練になった。
  適度に苛められた経験は、悔しさをバネにするほどのエネルギーを培ってくれたわけではなかったが、嫌われることに耐える
  粘り気とか、頑固と柔軟との落とし所を見つけるしたたかさを身につけるのに役立ってくれただろう。とても良かったと思う。
  少年期にこそピュアな真実を掴みつつあった。年を重ねると感性が摩耗し、裸眼でも心のメガネが汚れてくる。戒めるべきことだ。


1993年 県立海老名高校入学。
 学区外の高校に入る。学力の低迷に喘ぎつづけ、青春に苦悩し眼高手低が辛く、まぁ色々とほろ苦く切ない高校生活を送った。
 昔からの念願だった図書委員会に特別枠で入る(高1〜高2)。 
 高1の時、父の仕事の用事にくっついてドイツとアイスランドを旅行。
 一家で海老名市に引っ越す。田園風景と住宅街が区画ごとに広がる街で、駅前だけが急にごちゃごちゃと開けていった。
 高2の時、友人と町田市の東進ハイスクール予備校に通う(〜高3)。 
 高3は特に鬱々して過ごし、青春の苦悩や思索をよく友人とミスドなどで語らいあった。嫌いな化学のテストを白紙で出し赤点をとる。
 修学旅行は美しき北海道。

 高校時代にも、何人もの善き友人・素晴らしい教師と出会った。文章を教師らに随分と褒められた経験は、貴重な自信になった。
 お喋り好きは三つ子の魂であるが、ただ性格は幼・小・中と極めて真面目だったのが、高・浪・大といくについれてチャランポランに
 解放されていった。要はその現れ方であろう、マイペースもナチュラルハイも生来の性格だとは思う。

1996年 大学入試に落ち、自宅で浪人生活を送る。
 予備校には通わず通信教材を用いていたが、勉強ははかどらなかった。友人らが頻繁に予備校の模擬テストのチラシを持ってきてくれた。
 なぜか浴衣姿ですごし、悶々としながら、密かに科学や文学に憧れていた。
 内心的には躁鬱の起伏が極めて激しく、なかばそれを楽しんでもいた。

1997年 日本大学 生物資源科学部(生物環境工学科)入学。 
 長い学科名であるが、内実は農学部・農業土木科。水田や建物の構築、測量、自然環境問題などを学習する。
 藤沢市湘南台にある緑豊かなキャンパスで、心身とも自由を満喫して怠惰とアカデミックな雰囲気に酔いしれて過ごした。
 悩みつつも、ある種とても幸福な4年間であった。

 卓球クラブに入部したが、運動部を仕切る体育連盟の横暴に反感を持ち、ひと月で辞めた。
 1年時、やる気充分で月曜から土曜までの時限を朝から夕方までフルに取り、必要単位の大半を修めた。先生や友人とよく談話した。
 とくに哲学の三浦義雄講師には影響を受けた。多い時には週3回、卒業後も月1でコーヒーショップや飲み屋で語らった。
 よく議論をし、様々なことを教わり、まま大喧嘩もした。先生は、自然環境と人間社会との軋轢について、思想史や技術史から
 見つめ直し、『滅びのアテナ』という分厚い本にまとめた。私に「デカルトを読んでごらん」と教授してくれたのもこの先生だった。
 夏、沖縄を旅する(中学時代の友人と行き、途中から一人旅。高3の時にも家族で沖縄ツアー)。沖縄は魂を強烈に惹きつけた。

 2年次からはほとんど授業を取らず青春を楽しみ、読書・映画鑑賞・博物館めぐりなど、気ままな方向に努力していた。
 山や川へ化石採集に行ったり、あちこち寺を巡って御朱印を集めもしたが、十年続くような趣味にはならなかった。
 3年次、ゼミの仲間と秋田・北海道を旅行。 また神奈川県内の相模湾湾岸を断続的に歩き通す「海岸ウォーク」を企画し、やはり
 クラスの友人数名で敢行、この徒歩小旅行は全7回に及んだ。暇でロマンを追いかけていたのだろう。
 4年次、皆が就職活動に励む頃、我流の卒業論文「水田形態の相違による生態系の比較」に打ち込んでいた。担当のゼミ講師
 は無能かつ極めて陰険でキレ易く表裏があり、面白いほど苦しめられた。他ゼミの先生方に随分助けてもらった。
 必修科目(熱力学)が苦手で最終テストを蹴った(江ノ島で天ぷらを食べていた)ため卒業が危ぶまれた。卒業アルバムの制作には凝った。

2001年 大学卒業。就職活動に興味がなかったのでエスカレーター式に無職になる。
 野鳥観察のアルバイトまがいのことと道路警備員のアルバイトをしたがやがて辞め、家やカフェで本を読みぶらぶらしていた。
 時折、父の輸入業の手伝いをした。
 夏、私の生活に母が激怒。売り言葉に買い言葉で黄色いママチャリにまたがって家を出ると、そのまま当時の恋人がいた北海道まで
 行って帰ってくる関東・北海道・東北・甲信越1ヶ月間の旅となってしまった。インドア派なのにテントや寝袋を途中で買い込んで、
 野宿しつつの日々だった(その後も札幌は何度か訪れた)

2002年 夏、思いついて「点字フォント」を制作。情熱を注いで一気に完成に至ると、ひと夏が終わっていた。初めてウェブサイトを作り公開。

2003年 近くの座間市立野台にアパートを借りたが、料理が不得意で腹が減るので、ほとんど毎日実家にいた。一人暮らしを失敗。
 父の仕事を多少手伝う。主に、イタリア製のペレットストーブの展示会など。横浜や岩手や長野に出向いた。

2004年 隣町の大きな図書館で司書手伝いのアルバイト(4月〜12月)。職場にいるほとんどが女性で、時には仕事がうっとりするほど楽しく、
 時にはゴキブリのように嫌われて苦痛もあったが、いずれにせよ本に囲まれて過ごす時間は至福そのものだった。
 高校時代の友人と2人で「鳥と化石魚」ウェブサイトを開設(〜2008)。簡単なGIFアニメーション、歌、エッセイ、イラストなどを作り、
 自己満足の表現方法を模索する。よく海老名の街を散歩した。
 実家の向かいに千葉正士さんという東京都立大名誉教授(スポーツ法学)が住んでいた。高齢で体が悪いのでと呼ばれ、本の整理
 を時々手伝い、小遣いをいただく。作業の後にはいつもご夫婦で人生についてのアドバイスをくれた。

2005年 1月〜11月、アジアひとり旅。
 頭を丸め、75Lのバックパックを背負い、父母弟に海老名駅で見送られて電車で横浜、深夜バスで大阪、船で2日かけて上海に渡る。
 その後中国・ベトナム・カンボジア・タイ・マレーシア・インドネシア・ミャンマー・ラオスをぶらぶらと旅した。コーヒーと読書に幸福を感じ、
 旅の出逢いの妙はまるで魔法がかった世界にいるようだった。人生の不思議と自由の喜びとを、最高度に味わった気がする。
 インドネシアでは、出会った長崎大医学部の学生らと一緒にニアス島に渡り、津波被災地のボランティアに参加。
 先述の三浦哲学講師が孤独死してしまっていた知らせを受け、気落ちしてラオスから帰国の途に就いた。奇妙なロングヘアーの風貌で帰宅。
 今まで自分はフリーターだと思っていたが、帰国するとニートという新しい言葉ができていてそう呼ばれた。

2006年 3月〜6月、ふたたびアジアへ。
 タイ・カンボジア・コルカタ(インド)を旅する。父が心筋梗塞で入院した知らせを受け帰国(最新医療技術のお陰で父は助かった)
 世界一周は全然実現しなかった。
 6月〜12月、北海道道東の屈斜路湖の近くにあるユースゲストハウスでボラバイト(翌年1〜2月にも)。北海道はとにかく美しい。

2007年 茨城県水戸市に移る。水戸はすっきりしたフラットな都市で、田畑も多く、どこか昔ながらの質感が残っている街だ。
 ゼンリン住宅地図の調査員アルバイト。風雨と日差しがキツいながらも茨城県を歩き回り、職場の仲間と戯れて楽しかった。

2008年 神奈川県海老名市の元実家のあった家(父母は伊勢原市に引っ越した)にて暮らす。厚木市の工場でパソコン修理バイト。
 フィリピン旅行。伊豆にも旅行。
 弟が(自動車エンジン開発の会社を辞め、やはりアジアを旅した後に)父の仕事(貿易業)を継いだ。
 楽しい中学校同窓会があった。先生から「みんな成長してるのに、なんでお前だけそのまんまなの?」と笑われた。(どういう意味?)


 ◯ 青年期を振り返ると:
  たしかにたしかに、10代後半から20代というのは素晴らしかった。その時々には実に悩み多く、技術も精神もすべてにおいて発達途上
  でどうにもなりそうになかったが、若さが可能性の資源であることは今更になって痛いほど理解できる。
  続く30代は、世間で皆が言うように、まさしくあっという間に過ぎていった。一体何をしていたのだろうか? とさえ思うが、結婚や子育て
  といった人生の最重要イベントがそういえばあったのだ。時には働き、時々引っ越したりと、生活苦にあえぎながらも何とかやってきた。


2009年 結婚。妻はビーズアクセサリーデザイナー。いわゆるニートの花婿に、結婚式(大磯プリンスホテル)では皆が気を使ってくれて優しかった。
 夏、北海道(美瑛・弟子屈・礼文島)を旅行。 
 座間市の起伏と緑の多い住宅街にあるウィークリーマンションに3ヶ月間住む。秋、京都を旅行。
 この頃何度か、東京(阿佐ヶ谷)で開催された文字と印刷に関する市民学術イベント「もじもじカフェ」に参加、楽しかった。

2010年 4月、フランス(パリ)1ヶ月間の旅行。らせん階段でホテル6階に上り下りする生活は鍛えられる。10月、宮城県へバス旅行。
 12月、長男誕生。 神奈川県川上郡中井町のマンションに越し、畑の区画を借りてのどかに暮らす。森に囲まれた気持ちのよい田舎。
 本を書いていたがどれもこれも完成せず、生活に苦悩し、体調を崩す(過換気症候群やパニック障害)。パソコンのやり過ぎや
 コーヒーの飲み過ぎ(10〜15杯/1日)が原因だったことが次第に分かった。なお、私は煙草は吸わず酒もほとんど飲まない。

2011年 3月 東日本大震災発生時は、家族で大磯の海岸道路を車で走っていた。たまたま境川を遡る津波を河岸で見た。渋滞と
 停電のなかを夜までかかって帰宅し、テレビで惨状をみて唖然とした。放射能について知人友人と情報共有し、対策する非日常
 の数週間を過ごす。東京で行われた3つの反原発デモに参加。 
 近所に放射能のホットスポットが見つかる。4月、家族で小さな車に乗って九州までの旅に出た。避難と移住先検討をかねた突拍子も
 ないこの家族旅行は40日間に及び、馴染みの薄かった西日本を味わう有意味なものとなった。主な滞在地は名古屋・伊勢・大阪・岡山
 ・広島・山口・長崎・熊本・島根・大阪。

 6月中旬、沖縄県糸満市に移住。妻がインターネットでぱぱっと契約した、さとうきび畑に囲まれた集落にあるアパートへ。
 6月23日(沖縄の慰霊の日)、思いたって平和祈念公園の式典に出向き、菅直人首相に脱原発を求める手紙を投げ渡すと、警察に連行・
 事情聴取され、翌朝の琉球新報と沖縄タイムスに小さく記事が載った。警察は親切で、来沖のよい記念になった。
 南国の海と自然と文化…沖縄は憧れの場所でもあったので、数ヶ月間は気持ちがふわふわと夢見心地のままだった。

2012年 すっかり沖縄での生活に慣れきって、ソーキそばも連食しなくなり、観光することも、美しい海を眺めることも少なくなった。
 沖縄での生活は温湿度と野菜・魚が自分に合わない。とはいえ、何に関してもギスギスしない所がとても好きだ。(関東はギスギスすぎだ!)
 琉球ガラス村に短時間パートとして勤務。チラシ作りやサンドブラスト加工など雑多な仕事を担当。仕事と趣味とを混同しながら、
 琉球ガラスの歴史や現状や作品を調べたり、収集をはじめる。図書にまとめることを前提に方方の工房を取材して回る。
 矢ヶ崎克馬先生(琉球大学名誉教授)ら率いる、被災地がれき受け入れ問題についての会合の講演を聞く。この先生は素晴らしい。

2013年 個人的にひどい1年だった。胎児を亡くした。琉球ガラスの研究と収集は進んだが、本の執筆は中断。

2014年 5月、台湾旅行(両親と家族とで)
 琉球ガラス村で受けたインタヴューが短い記事として琉球新報(5/15)に載る(しかしこの年の琉球ガラス史研究は滞った)
 当ウェブサイト「河西大地の手植えノートWebsite」開設はじめて実名を表に出して、多少自分で気恥ずかしい。
 「デカルトの重箱」ブログを開始。
 12月7日、ノリで初出場したNAHAマラソンを6時間10分かけて完走。嬉しかった。翌日は全身極度の筋肉痛で寝込んだ。

2015年 5月、琉球ガラス村(パート)を退職。以降、研究・執筆と育児・趣味・諸々のアルバイト。
 6月、香港に短期滞在(妻の仕事にて)
 8月、この「手植えノートWebsite」内に、「琉球ガラス〈資料編〉website」と「沖縄のガラス瓶〈資料編〉website」を加え公開。
 11月、二男誕生。

2016年 冬・春、育児に非常に苦悩しながら生活と研究・趣味・雑事に雑然とした日々を送った。
 収集した琉球ガラスは1000点を超え、蔵書も古書など(デカルト・哲学・ガラス工芸・美術)も10000冊を超え、狭いアパートが
 尋常でない状況である。けれど真に大切なのは物品ではない。というか、大切なのは物品ばかりではない。
 茨城・神奈川に年1回のペースで帰省する。その際ついでに神保町(東京)に宿をとり、古書街巡りをするのが楽しみとなっていた。
 夏・秋、やっと育児・生活・研究の調子がとれはじめる。10月、九州(福岡・宮崎・鹿児島・大分)を旅行

2017年 運動不足で風邪ばかりひき、顔のシミ・シワが増えるなどの老化現象が目立つようになる。
 近所の子供たちともよく遊ぶ。子供は人類の宝だが、しょっちゅうイライラし子らを叱る。とても良寛様にはなれない。
 5月、近所の悪童をかまってギックリ腰を初めて患う(1ヶ月で治った)。6月、短期帰省し10年ぶりの楽しい中学校同窓会に出席。
 7月、近所の小5少年らの誘いでLINEを遅ればせながら開始。旧交を温めるのは時間の浪費ながら楽しい。
 夏〜秋、週7日間ひっきりなしに近所の子供たちが大勢この狭アパートに押し寄せてきて、ぎゅうぎゅうの溜まり場状態となっていた。
 収集した琉球ガラスは2000点を超えた。

2018年 1月、自作出版物の発行所として「白雨草木庵」の屋号を掲げる(9月公開)。ISBN(国際標準図書番号)出版者番号は909582。
 2月、40歳になった。不惑? とんでもない! むしろ増惑、充惑、満惑、溢惑、誘惑、迷惑、疑惑、困惑、始終万惑で、もっとワクワク
 暮らしたいのが本音だが、ちゃらんぽらんな生活の割に苦悩続きの日々。思索、著作、創作をもっとサクサクこなしたいと良策、奇策、
 打開策を模索する毎日でも、それがいつものことながらちっとも上手くいかない。

 源ノ明朝フォント(Google・Adobeの共同開発オープンソース、2017年)のひらがな領域を改変して派生フォント(「源微大地明朝かな」)を制作、
 このことに1ヶ月以上も費やした。細部まで気に入るようなひらがな書体がなかったからだ。独自書体でモノを書く気分はよい。
 9月、電話をPHSから世間並みのiPhoneに。道具が変わると少し生活スタイルが変わるものの、メインの使用道具はノートとパソコン。
 11月、
『琉球ガラスの年代物コレクション 〜沖縄ガラス工芸図鑑〜を出版。
 延期に延期を重ねさらに著作内容を変更してまたさらに延期を重ね〆切を何十回も破り、やっと初めて本を世に出した。方々に感謝。1冊の
 本を独りで作るのはとんでもなく面倒な作業群で精神的にヘトヘトだ。初作を出すのに構想から6年もかけてしまったし、内容的には本来
 作らねばならない本からのスピンアウトで、不本意な点がいっぱいである。が、完成をみると爽快でもある。琉球ガラス業界や沖縄にちょっ
 とは御恩返しができた気もする。とはいえ、たとえ画期的で充実の内容であったとしてもそんなにばんばん売れるような本ではないから、
 これから手売りなどで稼がねば… 本書を皮切りに、挑戦的で分厚い良書をどんどん作っていきたい。



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  時系列で細かな情報を記してみたが、一個の人間の半生がどれほど伝達できたかというと心もとない。
  情報は選択的だし、細部のエピソードも感性的なニュアンスも、多くが零れ落ちている。
  足跡には、当然ながら、現在の私にまで残存しているものと、影響の消えてしまったものとがある。
  そういうわけで、以上、さほど有意味でもない主観による〈気ままな経歴〉でした。


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