更新履歴的なメモと、雑多な記録の、Memo ページです。
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Essay
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Memo:
以下、ちょっとむかしのメモ的な写真& Essay です。


2022.10/24

 もうひと月以上前のこと。秋の空を私は見上げて、
 「ほら、大きな鳥が、飛んでいるよ」
 と指さした。

 三歳半の娘は、
 「ほんとだ! 大きな鳥みたい。鳥みたいな、大きい雲が、浮かんでる!」
 と、正確なことばの表現をためしながら、瞳を輝かせた。





2022.7/31

 最近、ときどき海辺を散歩する。
 日射しは思っているよりも強くて、帰ってくるといつしかうたた寝していることが多いのは、
 日光に照らされた体の細胞が修復を求めるからなのだろう。



 糸満市/名城ビーチ。




 また別の日、同じ場所で。
 慶良間諸島の向こうに沈む夕日。



2022.7/30〜8/14

 今年2022年は、なんだか良い年ではない。
 ニュースも暗いし、コロナ禍もまだ続くし、家族の体調不良も、周囲に悲しい出来事も多い。
 ロシアのウクライナ戦争も酷いが、安倍元首相の暗殺もまたギョッとするニュースだった。
 が、戦争も暗殺も、やった側が一方的に悪いと決めつける気に私はならない。事件の
 背景にどうしても気持ちが向く。今回の戦争やら暗殺やらは、イジメや猟奇殺人とは違う。

 これには十人十色の意見があるだろう。そして、意見の相違は国民を二分三分し、対立
 を生む。人々がそれぞれの意見をきちんと述べられることは大事で、乱闘になったりせず
 なるべく対話を深めることが良いことだ。

 黙っているのが最善、という選択もある。
 が、ほんとうにそれでいいかは再考の余地がある。
 私はここに今から書いて公表するからといって、自分の意見を誰に押し付けるつもりもない。
 ただ自分の意見をここにメモするだけだ。単に私個人の、時事にかんする持論である。
 対話も討論もよいことといいつつ、なぜ持論を一方的に公開するのか。
 それは、意見を開示するそのこと自体が、別な広がりを生むからだ。
 感情的な吐露が含まれていても、純心が芯にあれば、誰かに何かが伝わる可能性がある。


 一.戦争は、通常外交の失敗で始まる。
    戦争が戦略的外交の一手段であった時代は遥か昔だ。昨今の戦争は双方の失敗だ。
    戦争が始まった時点で、双方の負け戦が決定しているのが21世紀である。
    周辺国が無茶苦茶で弱肉強食の世界にあっても、通常外交でどうにかすべきなのだ。

 一.死刑は、合法であっても、(当然ながら)殺人の一種である。
    だから、もしも死刑をよしとすれば、暗殺もまた致しかたなし、と認めることとなる。
    合法/非合法が最重要でないのは、法律が絶対的なものでないからだ。
    現に憲法を変えようとする議論も、もう成就の手前まで来ている。法は可変的だ。
    人々が感情を理性で思想に仕立て、さらに社会的整合性で磨き固定したのが「法」だ。
    私は、死刑を含めたあらゆる他殺をよしと認めたくない。
    なるべくなら自殺も中絶もよしとしたくない。理想論であろうとも。

 一.戦争は殺人合戦だから特に駄目駄目だ。
    「じゃ、敵が攻めてきたらどーすんのさ」という軍備拡大側の前提疑問がある。
    攻められたら取られるだろう。で、応戦すれば双方血みどろだ。
    逆に、そうなったらどーするのかを私は先に訊きたい。
    つまるところ、攻めてこさせないようにしなければならない。

    が、「そのために対等な軍事力を持つ」という方針のナンセンスに気がつくべきだ。
    アメリカの一般市民が銃を所持してどうなっているか。
    市民同士の悲惨な銃撃が状態化した。
    ロシアとウクライナが双方笑っているかどうか。
    思わぬ泥沼化で双方泣きべそだ。
    ロシアやアメリカの核保有は戦争を抑制したか。
    していない。核が守っているのはお偉いさん方の生命ばかりである。
    地政学をはじめ諸学問は後出し説明に徹して悦に入っている。平和に役立たない。

    哲学思想を頑張って練り直さねばならないのに、誰もがお茶を濁して生活している。
    ずっとカントではピントがズレていて、いかんともしがたい。
    やっぱり人はたくさん旅をして、見聞を広げなければいけないのである。

    結局いまさら軍事力で勝負しようとするのはそもそも目的倒錯で、諸々非効率なのだ。
    同じ盤上に上がって牛後につこうとするのが愚策だ。核兵器に気が向くのはマヌケだ。
    多くの国が前時代的な軍事競争に挑むのを横目に、パラダイムを新築するのが本当の
    賢さというものであり、発展・進化であろう。
   ( 進歩を否定する構造主義は尻すぼみで崩れかかったまま未だに信奉されている。
     次の思想がなかなか形にならないからである。)

    持たない国は機動性が高いから、それができる可能性が十分にある。決意さえあれば。
    別のルールを敷けば先頭に立てる。勝機はそこにこそ隠れている。
    外交には本質を突いた発想転換がなければ粋じゃない。日本の外交は野暮だ。

 一.安倍元首相の暗殺者は、たしかに「許されざる蛮行」で「民主主義の破壊」を犯した。
    が、先に「許されざる蛮行」「民主主義の破壊」を犯したのは安倍さんの方だった。
    数々の不正を行ない、全部誤魔化し、沖縄県民の民意を強引に踏みにじり続けた。
    安倍さんの人柄は知らないが、政治がよかったとは私には全然思えない。

    安倍さんのやり方は、どこまでも弱者にキツかった。強者と身内に甘すぎた。
    こども園を整備したのはまるで母子に優しくみえる。でも母親を働かせるためだから。
    日本国はやはり経済的強者重視で、それがかえって経済の弱体化を引き起こすと
    いう皮肉がそこここにある(→中田YT大学チャンネル)

 一.ウクライナの戦争もそうだが、公的メディアのニュースが奇妙に情報を歪曲する。
    安倍さんのニュースでも情報そのものが変に隠蔽され、でもすぐ世間に知れ渡った。
    誰もが気づくのに、どうしてそうやって民衆を情報操作できると思うのかが不思議だ。
    案の定、ネット上には(憶測や偏見やデマもあるけれども)概して正しい情報や、
    まっとうな批判が溢れたのだった。後追いのニュース、それはニュースと呼ばない。

 一.コロナ禍に人々は、国は、個々人は、どのように立ち向かえばいいか。
    これは難しい話で、どれが正しいなどというのはない、とは言える。
    それでいながら、みな、自分こそがかなり正しいと思っている(他者からは独断に見えても)
    そしてそれは自然なことである。
    デカルトが『方法序説』の冒頭に挙げた「分別能力は人々がみな平等に持っている」
    という一文は、そうした意味だった。

 一.私の場合、マスクはする。同調圧力といえばそうかもしれない。
    マスクの効果の是非の議論はあるが、もしマスクに効果がないのだとしたら、外科
    手術中にお医者さんがするマスクは何なのだろう? ということにもなる。
    菌とウイルスの大きさの違いも、マスクの空気の流れの力学的分析も語られる。

    科学とは何か。科学的とはどういうことか。
    これは「科学史」や「科学概論」の分野の話になってくる。
    アリストテレスが諸学問を分類体系化した頃、科学は哲学に含まれていた。
    近代化で Science は哲学から分離した。と、世界中の学校で教えられている。
    ぼくはむしろ、井上靖が言った「哲学というのは、科学だ」という倒置的な捉え方が
    好きだ。そうなのだ。厳密には当たっていないが、科学とは何かをあぶり出すのに
    極めて重要な考察材料が、この井上靖の発言に含まれている。

    私はアルコールも手洗いうがいも入念にしている。見えない世界のことだけれども。

 一.私はワクチンは打たない。
    人間の科学技術を全部信じ込んだりしないのは、ひとつの科学的な態度である。
    特に新型コロナワクチンは、にわかごしらえで、どうみても検証が足りていない。
    ワクチンがコロナ禍を抑え込んだかどうかもよく分からない。
    少なくともコロナ第1〜3波はワクチンなしで収束したのだった。同じような周期の波
    なのに、第4波以降の収束がワクチンのお陰だというのは分からない。
    そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。

    「ワクチンを打ったほうが、罹ったときに重症化しにくいのです」と盛んにいわれるが、
    ワクチン接種で苦しみうなされている友人や、不運にも亡くなる人が何千もいると
    のニュースを目にすると、「何だかなぁ・・・」と白けてしまう(→大石解説チャンネル)

    いずれにしても、個々人に判断を委ねることは大大原則である。

    陰謀論は私の肌に合わない。ほとんどの陰謀論には浅薄なわざとらしさが目立つ。
    でも巨額が動くから、製薬会社や政府にお金の都合や辻褄合わせはあるはずだ。
    たとえば未必の故意で杜撰な統計を出したのは厚労省による詐欺だ(→古舘チャンネル)

 一.コロナ禍に真面目に対処するには、科学的であろうとする姿勢は絶対必要な条件だ。
    ところが、我こそ科学的なりと標榜する専門家が独断偏見に陥っているケースが多い。
    統計の取り方が杜撰であることに、学者自身が気づかない様子も気の毒である。
    でも、「統計学」も「科学史」も、ほんとうに細かくて難しい分野なのだから仕方がない。
    言えるのは、「不可知論」を残しておくのが、知を追う者の誠心であることである。
    だって、私たち人間は全知でも全能でもないのですから。


 ちなみに、なぜ私が持論をTwitterやFacebookやInstagramにアップしないで、古めかしい
 ウェブサイトにブログっぽく書いて載せるのかというと、、なんとなくSNSを避けたいためだ。

 いま、個人情報はそういった大手SNS上に半自動的に集積している。
 すごい映像、美味しそうな写真、個人体験が公に共有される。このサイトもそれは同じだ
 が、一網打尽の自動集積には与してなるものかと思っている。

 かく言う私もTwitterやFacebookやInstagramは使用する。が、なるべく閲覧に徹するよう
 にしている(YouTube動画は拘って作ってしまうけれども)。
 AIが自在にネットを行き交う昨今、私のささやかな抵抗は、まぁ、ほとんど無意味だろう。
 それこそ黙ってアナログ・ノートに書いて公表しなければ、情報がもれなくていい。

 けれど、我々はまだ情報について実験段階の社会にいる。
 行きつ戻りつの試行錯誤をしている。
 どうせ最先端に追いついても、あっという間に古臭くなるのが今のテクノロジーである。
 いずれにしても人を相手にしていくのだ。黙っていていいはずがない。練習、練習!

 それともうひとつ。
 SNSは大手企業の拵えたインフラだ。そっと基本ルールを変更したり、都合の悪いユー
 ザーを説明なしで排除することは頻繁に行なわれている。
 権力者は、平和的日常ではニコニコしているが、非常事態には権力を横暴に行使する。

 私は、まぁ、世の中を騒がせるようなことなど一生しないで終わる可能性が高い、面白み
 のない地味な性格の人間である。
 けれども。情報発信のインフラを、大手に丸投げして頼っておくのはシャクに触る。
 自由表現の場として、自前のサイトを確保しておく。アナログと自作の強みを担保しておく。
 いざとなれば、そのウェブサイトの内容をいくらでも復元して再発信できるように。


 ついでの雑談。
 世界最悪レベルの日本の経済成長について。
 かつての栄光や騒々しさはどこへやら、日本国は今やすっかり世界の劣等生だ。
 このままもっと悪くなってさらに成長は鈍化し、あるいは後退しにっちもさっちも行かなく
 なるだろう。
 そしていつか何かのきっかけを得て、私たち日本人はまたどん底から一気に世界の
 てっぺん辺りを目指すのだろう。それが歴史的パターンである。

 それまでは既得権益を貪る強者たちの足元で、なんとか飢えをしのいで持ちこたえよう。
 生きてさえいればなんとかなる。本質的に人生は苦であるとお釈迦様が説いた一方で、
 同じく本質的に人生は嬉しいものであると、私のような無信心な輩でも分かっている。




2022.7
      

 私は絵が好きで、西洋画も日本画も漫画も時々眺める。
 まれに自分でも家族の顔などをスケッチする。

 〈美大生風の鉛筆画〉と称して描いたこちらは、3歳になったばかりの娘。
 「素人にしてはなかなか上手いでしょう」などとまさに自画自賛しながら、
  次はもっと上手に、生命を吹き込むように描ける気がするのです。



2019.9

 久しぶりにMemoページを更新する気になった。
 久しぶりも久しぶり、2年ぶりである。

 ウェブサイトは自由な発言・公開の場だ。
 表現が自由か不自由かは、社会の中でのやり合いで決まる、兼ね合いで状況がうまれる。
 それに関して私は自由を強く愛する傾向があるから、どちらかといえば何でもオープンな方が好きだ。しかしながら当然、それで誰かを不快にさせる展開が起こりうることも知っているし、そうした批判否定の反応もまた表現の一種であると思えば、やはりモンテーニュの非結論を真似るしかない。

 けれど、このウェブサイトは、私にとって私自身のために必要な、自由な発言・公開の場である。
 私は、誰もがそういう場を持つのが良いのではないかとさえ思う。別に美術館の展覧会で集まらなくても、自由な表現は無限にできる。今のところは本ウェブサイトは無難な路線ばかりなので、自由も不自由も何もあるわけもないのだが。


2019.9/04
沖縄、晩夏の雲

台風を生み出す熱風が、夏の終りに毎日、りっぱな雲を作っている。
《沖縄》と一言で題せるくらいの写真が、ふとした瞬間にたまたま撮れた。
どこにでもありそうな風景、けれどもここにこの瞬間にしかない風景。








となりのトトロ』のキャットバスがちょちょっと渡ってきそうな高圧鉄塔と積乱雲の夕方。
よく見れば植生が違うのだけれど、温暖湿潤気候と亜熱帯気候では。




すっかり埋め立てられた海に、街並みが馴染み、かつて海岸線だったあたりで広がりきれない海が、マングローブの林にふちどられ川のように細くなっている。
それにしても、雲はでかい。





自衛隊の基地、フェンスの向こうの夕方の雲がやわらかく染まる。
ニュースが、近辺に台風が3つも4つもできていると伝えていた。




帰りがけ、南部の田舎道の向こうに虹のカケラが浮かんでいた。
ついつい車を路肩に停める。降りて構えて撮るほどの根気はないけれど、記録癖が疼くのである。
この瞬間を、永久に。



ーーーーーー===>  2019.9/4

                                                      〃〃〃 〃〃〃